願い石 叶い石
一話 一話 大志を抱く少年【2】
倒れている牝馬のそばに、ディンは膝をついた。重い息がこぼれる。半数ほどの馬が逃げのびたようだが、ディンが騎乗していたステアは死んでしまっていた。
旅にはじめてからの短いつきあいだったが、ひとに手を借りながらとはいえ、ディンが自分で世話をした馬だった。
彼女のたてがみをなでたとき、腕に痛みが走った。痛んだ部分に目を落とすと、衣の右の上腕部が破けていた。触ってみると指先に赤いものがつく。のぞきこむと、皮膚が裂け血に汚れていた。
いつついた傷か、覚えていなかった。気が抜けたのもあって痛みはじめたのだろう。
対峙したときの幻妖の紫の目を思いだすと、体が震えた。あのときはとっさのことで、恐怖を感じているひまもなかった。が、ふり返ってみれば、よく命があったものだ。
今さらながら恐怖が足下から這いのぼってくる。これぐらいの傷ですんだのは奇跡だと思う。
森はわずかな間に、見る影もなく荒れ果てていた。年輪を重ねた太い幹が、折り重なって倒れている。そこから差しこむ太陽のがまだらに照らしだす光景は、目を背けずにはいられなかった。
苔むした幹や、足下のシダ植物の葉にまき散らされた血が、あざやかな緑との対比で目に鮮烈だ。おびただしい量の血の中には、人体と、彼らが騎乗していた馬を構成する部品が、でたらめに散らばっている。癇癪を起こした子供が、人形たちの手足をもいでは投げ捨てたかのようなありさまだ。
彼らはみな、ディンの旅の仲間だ。
総勢一二人の旅だった。ディンを含め、そろいの黒の衣を着た彼らは寺院騎士である。
幻妖は強堅な肉体を持ち、通常の武器は通用しない。幻妖を殺めることができるのは、寺院で鍛えられる、神の加護をうけた特別な武器だけだ。
それを持ってしても、何十もの騎士が束になり立ちむかい、多くの犠牲をだしてようやく幻妖を一匹をしとめる。
それでも討ちとれたのなら幸運だ。封印という形で後に禍根を残すことも多いのだ。一行を襲ったのも、討伐できずこの森に封印されていた幻妖だった。
彼らはここで幻妖を食いとめ、ディンはその間に麓の里へ知らせる手はずだった。この人数でははじめから無謀な戦いだった。
それでも誰かが里に知らせ、そして誰かが避難するだけの時間をかせがなければならなかった。
いろんなものが許容量を超えて押しこまれた頭が、割れそうだった。
詰めこまれたものを吐きだせば楽になれるのだろうか。
仲間の死を悼む心。彼らの命を無惨に奪った幻妖に憤る思い。無駄になった封印に対する感情。
それでいて、一人残され、これからどうすればいいのかと途方に暮れる気持ち。
他者の力をあてにしていたわけではない。誰に反対されても、たとえ一人でだって、自分のできることをしようと家を出てきた。
今でも覚悟に変わりはない。
でも実際は、自分で思っているよりずっと、仲間たちに頼っていたようだ。
だがもう誰もいない。
これからは、本当に一人だ。あきらめるつもりがないのなら、座りこんで泣いていいわけがない。
意識をきりかえるために息を一つついて、ディンは血の中に散らばる仲間たちの荷物を集め始めた。
出発するときに行軍の邪魔ににならない程度の糧食を、寺院で持たされた。馬と共に半数の荷が失われたが、残っている分だけでもディン一人なら十分すぎる糧食がある。
しかし目的地までの食料を担いでいけるわけでもない。だから運べる分だけの携帯食料を拝借して荷物をまとめた。
惨劇の場からはなれた場所で、かつげるように荷物をまとめ終えると、ディンは傷の手当にかかった。小さい傷には薬を塗るだけで、右の二の腕には油紙を貼りつけ、その上から包帯を巻きつける。
片方を口にくわえて巻くのだが、うまくいかない。何度かやり直していると、溜息が聞こえた。
顔をあげると、仔ブタを抱いて木にもたれている、ひとの姿をした幻妖と目があう。
どこをどう走ったのか、里へとただがむしゃらに走っているうちに道を見失っていた。再び仲間とわかれた場所へディンがもどってこれたのは、彼女のおかげだった。
何度もやり直すディンにあきれているのか、彼女はもう一度溜息をつくと仔ブタを降ろし近づいてきた。
「へたくそ。やってやるから。貸して」
掌を服で無造作にぬぐうと、ディンの手から包帯をさらい、彼女は隣に座りこんで腕をとった。ふれた指がひんやりと冷たかった。
包帯を巻きつける仕草はなめらかだ。
口調の粗雑さに反し荒っぽい印象にならないのは、彼女の物腰の柔らかさゆえだろう。動きに品があるのだ。
肌は上質な絹か真珠を思わせるのに、それでいて指は細いが骨張っていて節がめだつ。
どうも彼女の印象はちぐはぐだ。
ディンは間近にある、整った顔立ちを見つめる。
長い睫毛が、白くなめらかな肌に濃い影を落としている。派手さはないが、ほの青白い光を投げかける月のような、透明で繊細な容貌だ。
ひとの視線を引きつけずにはおかない艶がある。
「俺はディンという。おまえは?」
彼女はちらりと、まだ泣いて赤くなったままの目をあげる。紫の目はなにかいいたげにディンを見たが、そのことには言及しないまま手元に目をもどした。
「ルーシェ」
「助けてくれて感謝する、ルーシェ」
「感謝するならブヒコさんにどうぞ。わたしは彼女の頼みをかなえただけだから」
「ブヒコさんというのは……もしかしてこのブタのことか?」
ルーシェのとなりに、行儀よく座りこむ仔ブタを見おろすと、むっとした声が答える。
「ブタとかいうな、命の恩人に対して。礼儀知らずだな」
「ブタにブタというなといわれても困る。人間に人間というなというようなものだろう」
「だったらそこのかわいい子とか、うつくしい彼女とか、可憐なお嬢さんとか、いい方なんていくらでもあるだろ」
「……形容詞が必要なのか」
「だいたいね、彼女にはブリリアント・ヒルファリア・コルスターチ、略してブヒコさんって、立派な名前があるんだから」
早口にいいたてるルーシェに気圧されながら、ディンは仔ブタの立派な名前に小首をかしげた。
「そんなたいそうな名前をつけて、いざというとき、愛着がわいて困らないのか?」
「……いざと――いうとき?」
ルーシェの目がすっと細められた。下からのぞきこむ表情にも、低くうなるような声にも、なにより紫色の目が口よりもなお雄弁に物語っていた。
発される鬼気に遅まきながらもしかしてと、人型の幻妖とたいそうな名をもつ仔ブタの間で目を往復させ、ディンは呆然とした。
「もしかしてこのブタ……」
ルーシェの目がいっそう凄味を増し、ディンはあわてて訂正する。
「ではなく彼女、もしかしなくても携帯食糧じゃ……」
「ピギっ!?」
「……うにことかいて誰が携帯食料だッ、誰が!」
言語を解するのか、ブリリアントが目くじらをたててディンを見あげ、ルーシェはギリギリと包帯を締めあげながら、額をくっつけんばかりにして凄む。腕を締めあげる力に、傷が痛んで顔をしかめながらも、じゃあとディンはまた首をかしげた。
「飼っているのか?」
「違う! 彼女は……わたしのなにより大切なひとだ」