願い石 叶い石
幻妖の体が揺らめいた。ゆらりと、熱気のむこうに景色を見るように輪郭がぶれ、徐々に体が透けはじめる。
光に解けるように、姿がおぼろになっていく。まるでその存在が夢幻だったかのように。その名の由来のままに。
幻妖が消えさるまでじっと様子を見つめていた彼女は、地に降りると振りかえった。
鼓動が痛いくらいに跳ねた。
一瞬にのどが干あがり、体は強張る。ディンは顎をひくと奥歯をかみしめ、振りかえる彼女を見つめた。
ふり返った彼女の瞳は紫――幻妖だけがその身におびる色だ。
やはり――と、ディンは思った。やはり彼女は人間ではなかったのだ。
けれどディンはその恐ろしいはずの紫の瞳を見つめていた。いや、目をうばわれたというほうが正しい。
重たげなまつげに煙る紫の目は、涙にぬれていた。
水晶のかけらのようなしずくが、白い頬をすべりおちる。
次から次へとこぼれるにまかせたまま彼女は歩いてくると、ディンの足下にいる仔ブタの前で片膝をついた。そして立てた膝へと額を押しつける。
こぶたが心配げに、声もなく涙を流す彼女に鼻面をよせた。
信じられなかった。
華奢な体で、自分よりはるかに大きな幻妖を一撃で屠る力をもっているのに、ぽろぽろと涙をこぼしている。
一人と一匹を様子を見ていたディンは、一度唇を引きむすぶと意を決して口を開いた。
「何故、泣いているんだ?」
「泣きたいから」
顔も上げず、ぶっきらぼうな答えが返ってくる。仔ブタがじろりと、険しい視線を送ってよこした。
とがめられているのかもしれない。だけど気にかかる気持ちのほうが強かった。
「どうして泣きたいんだ?」
「悲しいから」
「どうして悲しいんだ?」
さらさらとかすかな音をたてて髪がこぼれた。顔は見えなかったが、彼女がディンを見ようとしたのか、膝によせたままの頭が少しだけ動いた。
「あのさ、泣きたいときくらい好きに泣かせてくれる」
ふっと一拍おいて、険のある声がいった。それもそうかと、ディンは口を閉ざした。
かわりに、となりにしゃがみこんで、少しだけ躊躇して、でもやっぱりそっと手を伸ばす。
幻妖といえば、手負いの獣みたいなものだと思っていた。凶暴で、意思の疎通などとうてい望むべくもない、荒れ狂うだけの存在だ。
彼女がそんな幻妖だとしても、ディンにはもう恐ろしいとは思えなくなっていた。
もし幻妖を一撃で倒してしまう、すさまじい力をもっていなければ、紫の目をしていてもただの人間だと思ったかもしれない。
彼女のような幻妖を、聞いたことがなかった。
細くてなめらかそうだと、想像していた。想像通りの手触りの髪にふれると、人型の幻妖は少しだけ身じろいだ。
「子どものくせに」
小さくそう呟いたが、彼女はディンの手を払いのけはしなかった。
変わった幻妖だ、と、そう思った。