願い石 叶い石
一話 一話 大志を抱く少年【1】
少年が、山の斜面をいきおいよく駆けおりていく。
歳の頃は、一〇を越えたくらいだろう。
くせのある黒髪に、澄んだ夜空の瞳。太くてまっすぐな眉が、いかにも意志の強さを思わせる。名をディンといった。
足場の状態はよくなかった。大小の岩が埋もれ、太い根がむきだしに這う斜面を、下草と枯れ葉が覆いかくす。そのうえ、一昨日までの雨のために地面はぬかるんでいた。
そこを転がるようないきおいでくだっているのだ。少年の黒い衣服は泥に汚れ、いくつも鉤裂きができ、裂け目からはにじんだ血が見えた。
だが少年は足をとめない。
のどが刺すように痛かった。心臓は今にも破裂しそうだ。でも足はとまらない。 背後を何度も何度もふり返りながら走りつづける。
森は昼だというのに薄暗かった。
目をこらしたところで、密集する木々と陰にさえぎられて奥まで見通すことはできない。
それでも振りかえらずにはいられなかった。
少しまえまで聞こえていた生木を裂くような音は、もう聞こえなくなっていた。
それが意味するところを考えたくない。でもさらとずにはいられなかった。
唇をかみしめ、いっそう足を速めようとしたとき、大きな音がディンの背を襲った。
重い物がぶつかる音と、たてつづけに木がなぎ倒される音。思いのほか間近で聞こえた音に、ディンは反射的に振りかえる。
森の陰を凝縮したような真っ黒な影が、目のまえに立ちふさがっていた。落ちかかる影に眼差しをふり上げたデインは、そのまま動けなくなった。
森には危険な生き物が多い。だが森は人々の生活から、切っても切りはなせない。だから森に近づくときは気をつけるように諭される。見上げた先にいたのは、その最たるものだった。太く力強い四肢、密に生えた針のような太く堅い毛並、筋肉質でがっしり巨躯。森の王とも呼ばれる熊だ。
だがただの熊ではないことは一目瞭然だ。
その巨体は優にデインの五倍はありそうだ。踏みつけられた樹齢何百年もありそうな巨木が、熊の体重に足元でみしみし音をたてている。
だがそれよりも何よりも……。
すべては目が物語っていた。
真っ黒な影の中で炯々と輝く双眸は紫。幻妖特有の光彩の色――生きとし生けるものには決してあり得ないという狂気の瞳だ。
幻妖――それは異形である。
それがいったいどんなもので、そしてどこから現れるのか、知る者はない。こつぜんと人里に現れ、すべてを打ち壊す。
どんな武器も通用しない頑強な肉体を持ち、食べるではなく人間を襲い、里を破砕する。
破壊の申し子――それを人々は幻妖と呼んだ。
目があった瞬間、幻妖の眼力に一瞬で魂まで奪われかける。
茫然自失におちいりかけたディンは救ったのは、薄桃色をしたなにかだった。
幻妖の目がぎロリと動いた。つられてディンも視線を振りむけて、思わず目をしばたたく。
二対の視線の先にちょこんと座り込んでいるのは、仔ブタだった。
仔ブタは座り込んだまま動かない。向けられた紫の双眸にのまれているのかもしれないとか、そんなことを考えている余裕はなかった。
丸太のような手をふり上げる幻妖に、とっさに体が反応していた。
幻妖の前を横切って、仔ブタに向かって飛びこむ。
頭上で樹が砕けちる音がした。わずかに遅れて木片がばらばらと降る。倒れこむ樹木をさけ、ディンは仔ブタを抱えて横様に転がった。勢いを殺さず跳ねおき、幻妖に目をむける。
寸発いれず跳ねあげられた腕に、ディンは仔ブタを抱えたまま駆けだす。だがいくらもいかず、感じた違和感に足を止めた。息を吸うのも苦しいような鬼気が、やわらいだような気がしたのだ。
いぶかしく見上げた幻妖は、ディンも抱えた仔ブタのことも見ていなかった。
幻妖の視線の先を追おうとしたディンの腕の中で、仔ブタがもぞもぞと身じろぐ。ディンが対応するより早く、仔ブタは胸を蹴って腕を跳びだした。
仔ブタを追おうとしたディンの目の前を、白い手が伸びた。細いその腕は仔ブタの頭を一なでし、はなれていく。
華奢な後ろ姿だった。
歳は、たぶん一〇代を出ていないだろう。腿の半ばまである高襟の白い上着に、下衣は足裏に留めのついた黒のタイツだけで、足先はむきだしで靴をはいていなかった。
衣服は男物だが、体つきはあきらかに男ではない。肉づきが薄く、すらりと伸びた手足に、肩口でそろえた銀の髪が、光をうけ、透けてきらめく。細身の体とあいまって、水晶か玻璃の細工物を思わせた。
彼女はディンの脇を通り、まっすぐ幻妖へとむかう。
そのほっそりとした足は、まるで羽が生えているみたいに体重を感じさせない。足音がしないせいだとすぐに気がついた。よく見ると、彼女の足は地面にふれるかふれないかの、微妙な高度を踏んでいた。
その場すべてが、彼女に支配されていた。
さっきまでの張りつめた空気はなりをひそめ、静かだが、重苦しい空気に取ってかわっていた。幻妖は見えない糸にからめとられたように、ただ彼女の一挙手一投足を見つめていた。
相手は腕の一ふりで呆気なく果てるだろう、人間の中でさえか細く弱い部類だ。だというのに目の前の彼女から少しでも遠ざかろうと、熊の姿をした幻妖は上半身を必死にそらしている。それでいて下半身は縫いとめられたかのように動かなかった。
幻妖が彼女におびえているのだ。
幻妖の前まで進みでた彼女の細い足が宙を蹴った。ほっそりした体が、風の妖精みたいに軽やかに浮かびあがる。
彼女はのぞき込む角度で、幻妖にぴたりと視線をあわせた。
薄い背中は黙って、震える声で鳴く巨躯を見おろす。なにかを思い悩むような沈黙だった。その理由までは、後ろ姿からではとうていうかがい知ることはできない。
どれくらい沈黙が続いただろう。
長い沈黙のを破ったのは、小さな吐息だった。
落ちた息が契機だった。
彼女の雰囲気がからりと変わる。冷たく冴えた気配へと、あざやかに変化する。
同時に幻妖が猛々しく吠えた。
彼女の変化は幻妖の目にも明白だったようだ。我が身の危機に、機先を制して幻妖がおどりかかる。
彼女は再び宙を蹴り、より高い場所へと体を運んだ。
「おたがい、自分が選んだ道だから」
高く澄んだ玻璃がなるような声を、知らず想像していた。
だが彼女の声はしっとりと落ちついていて、ディンは少なからず意外さを覚えた。
気鬱な声を聞かせた彼女は、幻妖の頭部に右の掌を押しあてる。次の瞬間、ディンは雨が降ったのかと思った。
パタパタッと、細かい何かが早い拍子で地面を打つ。遅れて地響きがとどろいた。
幻妖の巨体が仰向けに倒れこむ。
雨ではないとすぐに気がついて、ディンは震える己の体を抱きしめた。
地を打ったのは雨滴などではない。一撃にて粉砕された幻妖の頭部だったのだ。粉微塵にされた肉や骨が、体液とともにばらまかれる音だったのだ。
証拠に、腹を見せて倒れた幻妖の体に頭部がない。
一瞬で幻妖を屠れる人間など、この世に存在しない。
もとより、空を飛べる人間も、幻妖を恐れさせる人間などもいないのだ。