あやかしの棲む家
6
「起きてください花咲様!」
菊乃の悲鳴めいた声が響き渡った。
当主の間で目覚めた花咲。
世界が真っ赤に染まっていた。熱い。屋敷が燃えているのだ。
布団から飛び起きて花咲は辺りを見回した。
「いったいなにが起きたの!?」
「何者かが屋敷中に火を放ったようでございます」
「ほかの人たちは?」
「わかりません。わたくしの使命として、真っ先に花咲様のご無事を確かめに参りました」
「……っお父様!」
花咲は天井を見上げた。
煙は高い場所に昇っていく。
「私のことは大丈夫、ほかの人たちと早く屋敷の外へ逃げてください!」
花咲は言い残して押し入れから屋根裏に上った。
やはり煙はすでに屋根裏に充満していた。
「げほげほっ」
巫女装束の袖で口元を押さえて花咲は克哉を探した。
「お父様!」
克哉はベッドの上にいた。眠っているのか、気を失っているのか、それとも……。
駆け寄って花咲は克哉を揺さぶった。
「お父様! お父様!」
反応がない。
焦る花咲だったが、その横には冷静な菊乃が立っており、脈と呼吸を確かめていた。
「まだ生きております。今はとにかく外へ運びます」
菊乃は人とは思えぬ力で軽々と克哉の躰を持ち上げ、背中に担ぐと来た道を引き返し当主の間に下りた。すぐあとを花咲が追う。
当主の間から縁側、そこから雨戸を開ければ外はすぐそこだ。
先を走る菊乃は雨戸に体当たりをした。
外れた雨戸が大きな音を立てて庭先に倒れた。その上を菊乃と花咲が駆ける。
強風が吹いた。
開かれた雨戸から屋敷の中に風が吸いこまれていく。
次の瞬間、炎が龍のように屋敷の中から飛び出して来た。
地面に放り出された克哉。
花咲が叫ぶ。
「菊乃さんッ!」
燃える華の中で菊乃の躰が溶けていく。炎に焼かれ、爛れたように顔が崩れ落ちる。泥にように特殊な肉体が溶けていくのだ。
「申しわけ……ご……ざ……」
溶けた唇から言葉が零れ落ちる。
地面に崩れ落ちた菊乃は炎に抱かれ魂も焦がされた。
屋敷の中から甲高い奇声が聞こえた。
般若の形相をした美咲が屋敷の中から飛び出してきた。髪を振り乱し、その手に持っているのは肉切り包丁。
「死ねぇぇぇぇぇッ!」
妖しく光る刃は花咲に向けられた。
刃は血を吸った。
前に突き出された花咲の手が肉切り包丁を受けていた。刃は人差し指と中指の間に入り、手首まで切り裂いていた。
重傷を負いながらも花咲は凜としていた。
「肉は断てても、この魂は断てません」
芯の強い声だった。
美咲は怯えた。眼を剥きながら口元を歪め、肉切り包丁を引き抜いて後退った。
「キィィィィッ! 美花、美花、美花ーっ!」
肉切り包丁を振り回す美咲に大量の影が群がった。それは子蜘蛛だった。子蜘蛛と言えど、その大きさは人の顔ほど。十数匹の子蜘蛛が糸を吐きながら美咲に飛びかかる。
美咲は糸を切り、子蜘蛛を真っ二つに断つ。
しかし、子蜘蛛は次から次へと屋敷の中から這い出てくる。
嗚呼、炎の道だ。
身を焼かれた子蜘蛛どもが屋敷の中から波となって押し寄せてきた。
炎を纏う子蜘蛛が美咲の躰にしがみつく。
燃える燃える美咲。
揺れる炎の中で美咲は狂い躍った。
「肉は焼かれても、この魂は焼くことはできない」
美咲は艶笑を花咲に向けた。怖ろしい微笑みだった。
着物が燃え、裸体となった美咲の股から、一筋の血が太股を伝わった。
花咲は悟った。
いつしか美咲は安らかな笑みを浮かべてた。そして、炎の華の中で息絶えたのだ。
屋敷から蛍火のように光が夜空に昇る。
その光景はまるで死者の魂が天に召されていくようだった。
音を立てて崩れる屋敷。
一つの世界がこの夜に消える。
そして、訪れる朝。
すでに東の空が輝きはじめていた。
花咲は克哉に駆け寄った。
「お父様!」
気道を確保して、唇を重ねる。
命を吹き込むように、息を吹き込んだ。
続けて心臓マッサージをした。
「お父様、お父様、お父様!」
胸に手を置いて断続的に押す。
人工呼吸と心臓マッサージを交互に何度か続け、ついに克哉が目覚めた。
「はっ! はぁはぁはぁ……静枝と静香がいた……臨死体験……か」
からからの喉で声を吐き出し、額の汗を克哉は拭った。
そして、克哉はなにかを探すように辺りを見回した。
「そういうことか!」
克哉はなにかに納得したようだが、花咲は訝しんで何事かわからない。
そして、短剣を抜いた克哉は、なんと美咲の屍体に刃を突き立てたのだ!
肉の焼ける異臭がまだ立ちこめている。
熱の残る黒い屍体の胸を切り開く。外側は焦げて炭になっていたが、中は生焼けだった。
手を血みどろにする克哉の姿に花咲は戦慄く。
「お父様なにをなさっているのですか! 死者の肉体を陵辱するなど!」
「死の狭間で静枝と静香が教えてくれたんだ。魂の記憶は受け継がれると……もしもそうなら!」
克哉は肉の中に手を突っ込んだ。
屍体の胸から取り出される心の臓。
まるでまだ生きているような美しい色をしていた。
命の色だ。
克哉は生温かい心臓を大事に抱えて走り出した。
まだ花咲は克哉の行動を理解していなかった。けれど、ここは付いていくしかあるまい。
向かう先に鳥居が見えてきた。
るりあが立っていた。怯えた表情で洞穴の入り口から一歩入ったところに立っていた。
朝日に落ちる巨大な影。
克哉の躰を謎の影が覆い呑み込んだ。上空だ。克哉の頭上になにかいる。
大蜘蛛が天から落ちてくる。
間一髪で克哉は避けて地面に転げ回った。心の臓を大事に抱きかかえながら。
「糞ッ、ここに来て敵に回りやがったか!」
すぐさま立ち上がった克哉は心の臓を花咲に託した。
「これをるりあに喰わせろ、怪物は俺がなんとかする!」
短剣を構えて克哉が大蜘蛛に飛びかかった。
花咲は父を信じて決して後ろを振り向かなかった。地面を力強く蹴り上げ、鳥居をくぐり、祠へと続く細道を駆ける。
るりあは逃げた。洞窟の奥へと逃げ込んでしまった。
朝日が差し込んでいるが、奥は深い闇の中。
構わず花咲は奥へと進んだ。
「止まれ!」
るりあの声が暗い世界に響いた。
声はすぐ目の前から聞こえた。足を止めた花咲のすぐそこにるりあがいるのだ。
「美咲さんの魂です。どうかこれを喰らってあなたの一部にしてください」
闇の中に花咲は心の臓を差し出した。
呼吸の音だけが聞こえる。
二人とも動かなかった。
ふっと花咲の手のひらが軽くなった。心の臓が消えた。
嗚呼、咀嚼音が聞こえる。
るりあが美咲の命を喰らっているのだ。おそらく血を滴らせながら、唇を真っ赤に染めながら、むしゃぶりつくて喰らっている。暗闇の中でそれを感じることができた。
「ううっ……あああ……」
突然、るりあが呻きはじめた。
驚く花咲。
「どうしましたか!?」
「ああっ……おらは……苦しい……頭が……怖い怖い……」
「大丈夫ですか?」
暗闇を手探りで花咲はるりあの躰を抱き寄せた。
「……違う」
と、呟いたのは花咲。
自分よりも大きな躰がそこにはあった。
ここにいるのは、るりあではないのか?
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)