あやかしの棲む家
「当主の儀式はするのでしょう? 今日にも? それとも明日かしら? 七つのうちにしなくてはいけないのではなかったかしら?」
言葉を残して慶子は去っていった。
急に汗を流しはじめた克哉は、深い溜め息を吐いた。
「さっきの地震は警告か、それとも本気で潰しに来たのか。おそらく後者だろうな、花咲が姿を見せた途端収まりやがった。敵も様子見をすることにしたってことか?」
言葉を終えると、瑶子の額の御札を剥がした。
すぐに瑶子は目を覚まして飛び起きた。
「はっ、あたし……ええっと、どうしてたんですか?」
何事もなかったように菊乃も部屋を出ようとしていた。
「朝餉[あさげ]の準備をいたします。瑶子さんも手伝ってください」
「は、はい!」
瑶子は克哉と花咲の顔をじろじろ見ながら、仕方がなさそうに菊乃のあとを付いていった。
屋敷は異様に静かだ。
それが何かの前触れのようで怖ろしい。
克哉はふと天井を見上げた。
「下りて来いよ」
がたっと天井で物音がした。
この屋敷には鼠すら棲んでいない。
「仕方ないなぁ」
克哉は押し入れを開け、そこから天井に上った。
屋根裏部屋にいた童女が逃げようとする。空かさず克哉は腕を掴んだ。
「鬼ごっこはおしまいだ。逃げることないだろ、俺のこと嫌なのか?」
ふるふるとるりあは首を横に振った。
「だったら逃げるなよ。なあ、話はどのくらい聞いてた? 理解できたか?」
別に睨んでいるわけではないだろうか、仏頂面でるりあは口を閉ざしてしまっている。眼はじっと克哉を見たままだ。
「怒ってるのか?」
「…………」
「どうしてだ?」
「…………」
「少しはしゃべってくれよ。花咲のことはもう知ってるだろ? あれ俺の娘なんだ。でも浮気じゃないからな、まだ起きてもないことなんだから……ってお前に言っても意味ないか」
るりあが克哉の手を振り払い、そのまま飛び出して、屋根裏から消えてしまった。
克哉は追わなかった。その小さい背中を見つめていただけだった。
「未来の俺、それとも別世界の俺は……どうしてあんなのと?」
「お父様」
声をかけられて克哉はびっくりしたような顔で振り向いた。立っていたのは花咲だ。
「これからどうしますか?」
「正直ここからが難しいところだな。ここから先はわからないことだらけだ、たぶん代々の俺が体験したことのない歴史の分岐に突入したんだと思う。一族の寿命に関する問題は道筋が立ったが、俺が過去に行くことを食い止めるすべ……というか、その根本的な原因、つまりそれが以前発生したものなのか、仕組まれていることなのか。まあおそらくは後者だろうが、なら俺を過去に送り込むなにかを仕掛けてくるはずなんだ。そもそも俺を過去に送り込んで、一族の歴史を繰り返させる理由がわからない」
「仏教には『人間は悟らなければ、何度でも生まれかわり、生の苦しみを味わうことになる。これから抜け出すには解脱し 輪廻を断ち切るしかない』とあります」
「これが仏の所業と言いたいのか? 悟りを開けば、俺は繰り返す世界から抜け出せるのか?」
「いいえ、たぶん悟らなくてはならないのは……」
花咲の瞳は澄んでいた。その中に世界を映し出している。克哉はその瞳の中に、ある面影を見た。
「まさか、そうなのか……いや、口に出してはいけない。これ以上は危険だ」
その言葉を受けて花咲は深く静かに頷いた。
たゆたうと揺れる紅い海。
その海はとても浅く、巫女装束の少女が浮かんでいた。
紅い水は少女を穢すことができなかった。その装束、その肌、その髪にすら、水の一滴も染みこむことはない。侵蝕を決して許さない。
世界を覆う黒い影が渦巻いた。
「小賢しい娘だ」
その声は童[わらべ]のようであり、老人のようであり、男か女かもはっきりしなかった。
花咲が鋭く瞳を見開く。
目の前で?渦巻くモノ?が嗤っている。影で覆われた顔なのに、怖ろしく嗤っていることは伝わってくるのだ。
装束の上から?渦巻くモノ?は、花咲の躰をまさぐりはじめた。
「お前には三つ子孕ましてやろう。それとも五つ子にしようか。それでお前たちのやったことは泡となる。もう二度と我が眼を盗んで外のモノと交配などさせるものか」
これまでそうして来たように、?渦巻くモノ?は一族の当主を孕ませようとしている。
だが、花咲は少女とは思えぬ艶笑を浮かべ、?渦巻くモノ?をあざ笑ったのだ。
「私を孕ませる? どうやって?」
刹那、?渦巻くモノ?が禍々しい鬼気を発した。
花咲の股が装束の上からまさぐられている。
そして、気づいたのだ。
「謀ったな!」
狂風が吹き荒れた。
?渦巻くモノ?が怒気を発している。
花咲は闇を振り払いながら凜と立ち上がった。
「ええ、私は克哉と静枝の嫡男なのです」
なんと花咲は男だったのだ。
?渦巻くモノ?が後退る。
紅い海が花咲を中心に浄化され、無垢に透き通っていく。
「ここは私の精神世界です。逃がしません」
花咲はいつの間にか手にしていた神楽鈴を鳴らした。
得体の知れない呻き声がした。
?渦巻くモノ?が纏っていた闇の衣の一部が消失した。
まるでそれは蛇のような眼。
しかしそれは、山羊のような角。
花咲は破魔矢を構えていた。
波紋が立つ。
そして、弓が引かれ、矢が放たれたのだ!
射貫くまで刹那であった。
遅れてやってくる絶叫の波。
海が粟立つ。
?渦巻くモノ?が螺旋の渦を描きながら消えていく。
「この苦しみ何倍にもして返してやる。新たな呪いを受けるがいい、永遠の輪廻の中で苦しみ藻掻くがいい!」
邪悪な気が消えた。
静まり返る世界。
花咲の精神世界は穏やかに返ったのだった。
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)