あやかしの棲む家
黙して語らず
それは運命の糸が紡がれはじめた刻[とき]。
自らの尾を飲み込んだ蛇に始まりも終わりもない。
今や出口はなく、この地に囚われて、何度目の朝焼けを迎えただろうか。
開いた小窓から屋根裏に差し込む光は、横たわる冷たい少女の頬を照らした。
まるでその少女は屍体――否、ただの人形のようだ。
男は力強く問うた。
「自分の名前がわかるか?」
少女は瞳を閉じたまま、ぴくりともしない。
「生きろ、お前は生き物だ。目を開けろ、お前は生きている」
さらに男は力強く言ったが反応はなかった。
突然、赤子の泣き声が屋根裏に響いた。
目を丸くした男は慌てて、ゆりかごで寝かされていた赤子に駆け寄った。
赤子は二人。双子の姉妹だった。
「なんだ、どうしたどうした? なんで泣いてるんだ?」
男は双子を交互に持ち上げながらあやす。
「漏らしてはないな……ただの夜泣きか?」
考えていると、ぴたりと赤子が泣き止み、男は首を傾げた。
気配がする。
双子の赤子、自分自身、そして第四の気配。
強ばった真顔で男は振り返った。
男の瞳に歓喜と共に起き上がる少女が映った。
「や……ったぞ。まさか本当に……まだだ、重要なのはこれからだ」
急いで駆け寄った男は少女の手を力強く握った。
冷たい少女の手が男の温かい手で温められる。
「自分の名前がわかるか? 思い出すんだ、重要なことだ。生きているお前には生きている名前が必要だ」
「…………」
「お前の名前には花の名が使われている。どうだ、思い出せないか?」
「…………」
「名前のはじめは『き』だ」
「…………」
少女の瞳には光が差しているが、とても弱い。
男は少女を抱きかかえ、顔と顔を間近で向き合わせた。
「生きている記憶が必要だ。なんでもいい思い出せ、頼むから生きてくれ」
懇願。
だが、虚しくも少女の瞳から色が消え、ふっと魂が抜けたように力が抜けた。
「菊乃!」
魂の雄叫び。
男は其の名を呼んだ。
少女の名は菊乃。
瞳を彩る色が輝きはじめた。
少女がつぶやく。
「……菊乃」
半信半疑で確認するように、少女は自分の名すら覚えていないようだった。だが、反応したと言うことは、記憶の琴線に触れたのだ。
記憶は神経が張り巡らされた糸ように構成されている。記憶から記憶へと伸びる糸の数、太さ、それらによって一つの記憶から、多くの記憶を呼び起こせるかもしれない。
「そうだ、お前の名前は菊乃だ。ほかになにか思い出さないか?」
「…………」
少女は首を振り言葉が途切れる。男は急いで言葉を紡ぐ。
「思い出さなくても良いこともある。重要なのは今生きていることかもしれないな。俺の名前は克哉だ」
「……克哉……克哉様?」
「思い出したかっ!?」
「いいえ、けれどあなたのことを知っているような気がする」
なぜか克哉は気まずそうな顔をして、菊乃から視線を外した。そして、話題を変えるように、双子の姉妹に歩み寄る。
「娘たちのことは覚えているか? 右にいるのが姉の美咲、もうひとりが妹の美花だ。俺の名前は忘れてもいい。二人の娘の名は心に刻んでおいて欲しい、いつか……」
言葉は切られた。
菊乃がじっと克哉を見つめている。なにか話したそうにしているのではなく、ただじっと見つめているだけ。
迫られたように克哉は口を開く。
「ほかに話すことは……そうだな、妻は死んだ。娘を生んで死んだんだ……」
うつむいた克哉の表情は、悲しみではなく怒りに満ちていた。顔を上げたときには、その表情は消えていた。
「いろいろと考えてみると、説明することも多いな。どれから順を追って話せばいいのか、なにか聞きたいことはあるか?」
「……ありません」
「聞かれても困るか。まず話すことは、もっとも重要なことだが、無闇に屋根裏を出ないで欲しい。ここは屋根裏部屋なんだが、この屋敷でもっとも安全な場所なんだ。今は静まっていて、ほかの場所もそれほど危険ではないと思うが、それでも無闇に歩き回れば危険を招く」
「なにが危険なのですか?」
聞かれて克哉はすぐに答えなかった。
言葉に詰まったのではなく、なにやら考え込んでいるようだ。
「……鬼だ」
と、克哉は短く言い放った。
「鬼?」
少女は少し驚いたような声を出したが、表情は乏しい。
「鬼と一口で言ってもいろいろいる。死人[しびと]をすべて鬼という場合もある。この場合はそれだろうな。やつらは悪霊の類だ。死んでこの地に取り憑いている――俺に殺されて」
やつらと呼ばれた者たちは、克哉によって殺された。
なぜ殺されなければならなかったのか?
なぜ悪霊になったのか?
そんなモノがこの屋敷に本当にいるのか?
克哉は真剣な顔をしていた。
「俺のこと、気が狂[ふ]れていると思ったか?」
「いいえ」
「いや、俺はきっと気が狂れている。だが、やつらは本当に存在している。そして俺はやつらに呪われている。呪われているのは俺だけじゃない。やつらは末代まで呪う気でいるだろうな。正確に何代先の子孫かはわからないが、だいぶ先の子孫もおそらく呪われていたんだろうと思う」
少しおかしな言い方がされた。菊乃がそこに触れることはなく、克哉の言葉は流された。
そして、菊乃が相づちを打つこともなく、克哉は話を続けることにした。
「まさか呪いの原因が俺だったとはな。けど、不思議だと思わないか? 元を辿ればその呪いのせいで俺はここにやって来て、呪いを生み出すことになった。例えるならこうだな。自分が生まれる前の過去に遡って、自分が自分の両親を殺すとする。そうすれば俺は生まれなくなるから、両親は死なずに済む。両親が死ななければ自分が生まれて、過去に行って両親を殺す。時間というのは不可逆であるはずだから、初まりと終わりがちゃんとある。今の例えはありえないものの例えだが、もし本当に起きてしまったとしたら、初まりと終わりはどこへ行ってしまうのか?」
克哉と菊乃は顔を見合わせた。
しばらく見合わせていた。
急に克哉は噴き出して笑った。
「すまない、変な話をしちまったな。昔はこうじゃなかったんだが、いつの間にか小難しく考える質[たち]になったんだ。いろいろあったせいだろうな」
「いろいろですか?」
珍しく合いの手が入ったことで、克哉はすぐに答える。
「いろいろとあった。多くの謎や疑問、これから自分はどうするべきなのか。過去は未来に干渉できる……のか。未来もまた過去に干渉できるとしたら、それはもはや未来が過去を変えたのではなく、予定調和だったのではないか。ああ、すまない、また変な話をしてしまった。この話は時期を見て少しずつしよう、今はそうだな、これからの生活について、俺と二人の娘たち、そして菊乃を入れた四人で、この屋敷で生きていく話をしよう」
克哉が屋根裏部屋の机に向かい雑記を書いていると、階段を何者かが上がってきた。
振り向いた克哉。そこには菊乃がいた。
「早すぎるな。買い出しに行く前になにかあったか?」
「庭先に女が紛れ込んでおりました」
「里からも遠いし、屈強な男でも恐れて近づかないような土地だ。そんな場所に女なんて、おかしな話だな。で、その女はどうした?」
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)