あやかしの棲む家
3
「どうかなさいました静枝様?」
部屋に入ってきた菊乃が見たものは、蒼い顔をした静枝だった。
「なんでもないわ。少し疲れているようね、いつの間にか寝てしまって悪夢を見るなんて」
静枝の顔は蒼いだけではなかった。少し頬がこけている。目の下には隈がある。疲労は今にはじまったことではなく、蓄積されているものようだ。
「あまり無理をなさらぬように、生まれてくる子供のためにも」
そう言ってお辞儀をして部屋を出て行こうとする菊乃に、少し驚いた顔をして静枝が呼び止める。
「貴女には冷たい印象を受けていたけれど、そういう気遣いもできるのね」
「静枝様に冷たい態度を取った覚えはございませんが?」
「表面的にはそうかもしれないわ。仕事をそつが無くこなし、わたしの身の回りの世話もしっかりしてくれている。気が利くほうだとも思うわ。けれどそれらすべては、感情を交えず規則どおりに物事を処理しているように感じていた」
「不愉快な思いをさせてしまったのなら、申しわけございません」
「別に謝らなくてもいいわ。貴女はそういうものとして見ているから。けれど先ほどの貴女からは感情が伺えたわ」
今の菊乃は無表情だった。
「仕事がございますので失礼いたします」
それはまるで逃げるような立ち去り方だった。
静枝は微笑んだ。
「菊乃にも照れると言うことがあるのかしらね、知らなかったわ」
静枝は机の本を少し持ち上げ、その下に隠してあった手紙をそっと滑らせ抜き取った。
手紙は最近書かれたものではなく、静枝が書いたものでもない。記されてした署名は智代の名だった。
同じ家にいながら手紙を書く理由は、口頭では伝えづらい、あるいは伝えられないことを形として残すため。
いったい智代は何を伝えたかったのか?
この手紙は誰に宛てた物だったのか?
手紙の文末には署名。冒頭には宛名が書かれていた。
――生まれてくる娘たちへ。
冒頭にはそう書かれていたのだ。
つまりこれが書かれたのは、静枝が生まれる以前である。そして、双子が生まれることを承知していたことになる。
手紙の上に置かれた静枝の指の間から見える文字。
――これを読んでいるのが娘たち、もしくはその子孫で。
――私は此の世に。
――呪縛から逃れる術を。
手紙は数枚に及ぶ長いものだった。
静枝は手紙を元の通りに折りたたんで、本の間に挟んだ。そして本は机の引き出しへとしまわれた。さらに引き出しは鍵を厳重に掛けられ封じられた。
大きく膨らんだ腹を抱えて、静枝はゆっくりと膝を伸ばして立ち上がった。
おぞましい寒気。
恐怖に顔を引き攣らせながら静枝は素早く振り返った。
「きゃぁっ!」
短く悲鳴をあげた静枝が見たものは、畳にできた血溜まりだった。
それは決して幻覚などではなかったが、血溜まりにはほかになにもない。血を流したモノがいないのだ。
静枝は目を閉じ、ゆっくりと目を開けた。
「よくもわたしを殺したなッ!」
眼前に飛び込んできた血みどろの狂気に駆られた女の顔。
思わず静枝は腰を抜かして尻餅をついてしまった。
その一瞬の間に女の顔は消えた。
脂汗を拭った静枝は急いで立ち上がり部屋を飛び出した。
そのまま屋敷も飛び出し、壁に立て掛けてあった鍬[くわ]を土などを運ぶ深型の荷台がついた一輪車に乗せ、ある場所へと向かった。
屋敷からだいぶ離れた場所――広大な庭の片隅に七五三縄[しめなわ]の巻かれた岩があった。
静枝は両手で力一杯岩を動かし、その地面を鍬で掘り起こしはじめた。
なにかに取り憑かれたように、妊娠した躰に鞭打ちながら静枝は黒土を掘り起こす。
鍬が硬い物に当たった。
黒土の隙間に見える白いもの。
次々と出土するそれを静枝は掘り出した。
それは骨だった。
人間の骨――いや違う。
放り出され転がっている頭蓋骨が人外であることを示していた。
角だ、額から小さな角が二つ生えている。
そして、この人外の死因はおろらくこれだろう。側頭部にある陥没した打撃痕だ。
静枝は一輪車に骨を乗せて屋敷へと戻る。
勝手口の前に一輪車を止めた静枝は屋敷の中に入り、しばらくすると大風呂敷と鉄槌を持って帰って来た。
骨は大風呂敷の上にぶちまけられた。
鉄槌を振り上げた静枝が一心不乱に骨を砕く。
砕く!
機械的にその作業をこなしているわけではない。
ぞっとするような強烈な恐ろしさを込めながら鉄槌を振り下ろしているのだ。
作業は数時にも及んだ。
その間、静枝はひと時も休まず重い鉄槌を振り続けた。
砕いた骨は台所へと運ばれた。
かまどに火が付けられると、骨の欠片がその中に焼[く]べられた。
火は古来から破壊と清浄の象徴である。
骨は灰とまではならなかったが、それでも静枝は満足したようだ。炎の消えたかまどから骨を取り出して風呂敷に包んだ。
「まだよ」
呟くと静枝は駆け出してどこかへ向かった。
静枝の消えた台所に現れる影。
「存在していないモノへの怯えは、灰にしようと変わらない」
女の眼が眼鏡の奥で妖しく輝いた。
「慶子様、夕餉[ゆうげ]の準備はまだしてございませんが?」
菊乃の声が響き、慶子は柔和な顔をして振り返った。
「少しお腹が空いてしまって。育ち盛りなのかしらねぇ」
おどけて見せる慶子は自らの豊満な胸を持ち上げた。
軽い足取りで台所を出ようとする慶子。
「やっぱり夕飯まで我慢するわ。では」
慶子の背中を見つめる菊乃の瞳は無機質だった。
そして、すぐに静枝が壺を抱えて戻ってきた。
「そこを離れなさいすぐに!」
いきなりの怒声。
「申しわけございません」
頭を下げた菊乃は素早くその場から離れた。
少し離れた場所から静枝を見守る菊乃。
一心不乱の静枝は先ほどの風呂敷包みを壺に押し込めていた。
すでにこのとき、静枝の眼中に菊乃はなかった。
壺のふたが閉められると、そこに御札で封をされ、さらに布で壺を覆うと麻紐で厳重に縛られた。
これで終わりではない。
壺を抱えた静枝は再び外へと向かったのだ。
行き先は先ほどと同じ場所。
盛り上がった土の横に穿たれた地の底に壺が収められた。
壺に土が次々と被せられる。
重労働を苦ともせず、休まず静枝は穴を埋めた。
埋めた穴は全力を持って踏み固められ――いや、蹴り固められた。それほどまでに力が走っていた。
夕暮れの朱色が静枝の顔に差す。
何時間にも及んだ作業はついに終わりを迎えようとしていた。
静枝は全身の体重を掛けて岩を動かした。
岩は埋められた穴の上へ。
七五三縄の巻かれた岩が最後の封となった。
大きく息をついた静枝。
歩き出した静枝は屋敷には戻らず、鳥居に向かっていた。
石で築かれた鳥居の先には祠がある。
祠の中は広く、天然の洞窟を元に作られたらしい。
静かで冷たい空気に満たされている。
静枝は祠の奥へと進み、祭壇までやって来た。
祭壇は石造りで、その上には銅鏡と香木が備えられていた。
よく見ると祭壇の脇には引きずったような跡がある。この祭壇は動くのだ。
静枝は祭壇を力一杯押した。
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)