あやかしの棲む家
2
少女は今日も髪を梳く。
鏡に映った顔は少女と大人の狭間を彷徨っている。
静枝は七つとなった。
見た目は一五歳前後になっていて、肉体的にも女らしくなって来ていた。
静枝越しに菊乃の姿が鏡に映り込んだ。
「智代様がお待ちでございます」
「長年離れていた妹に逢えるのだから、時間をくれてもいいでしょう。静香よりも綺麗じゃなきゃ嫌なの」
普段から上等な着物しか身につけていないが、町から届いたばかりの下ろし立てだった。
黒地に紅い花をあしらった着物。
櫛を置いた静枝は艶やかな髪を揺らしながら立ち上がった。
「できたわ」
「それではわたくしは外で静香様をお待ちして、智代様のお部屋までご案内いたします」
菊乃は会釈をしてその場を去った。
静枝は母の部屋へと向かう。
四年ぶりに逢う妹。それを思うと気持ちが高揚する。
母の部屋の前に立ちふすまを開ける。
「失礼いたします」
「遅かったわね」
「まだ静香が帰ってきていないのだからいいでしょう」
つんと静香は顔を背けた。
智代の横と前には座布団が一枚ずつ。静枝は智代の横に正座した。
呼吸を整えながら静枝は瞳を閉じて高鳴りを鎮めた。
どんな顔をして静香を迎えればいいのか?
どんな第一声を発しようか?
いろいろと静枝が考えていると、智代が声をかけてきた。
「わかっているわね静枝さん?」
「…………」
「わたくしが愛しているのは貴女だけ。生き残るのは貴女なのよ」
「……わかっているわ」
視線を合わせずに静枝は答えた。
少ししてから悟られぬように静枝は横目で智代を一瞥した。
恐ろしいまでに不気味な笑みを浮かべている。
眼の奥が狂っている。
昔から母の眼は狂っていた。そこにあるの狂気だ。狂気は年々膨らみ、今では静枝が直視できないほど狂気で妖しく輝いていた。
そんな母と静枝はある一定の距離を保ってきた。
離れすぎず近すぎず、母の機嫌を害さないように慎重に、この世界に蝕まれないように。
静枝はこの箱庭の世界を信じていない。
外の世界のことは知らない。
知らなくとも、この世界を信じていない。
比較の結果――つまり、外の世界とこの世界を比べて導き出された結果ではなく、目の前にあるものすべてを信じない結果だった。
母の眼は狂っている。
静枝が生まれたときから同じ眼をしている。
当たり前のことして、疑問を抱くということすら、頭を過ぎらないはず。だが、静枝は信じないことによって、比較対象をなしに狂っていると判断した。
この屋敷でごくごく当たり前の事。
そのすべてが静枝にしてみれば狂っている。
当たり前のことを受け入れない。
瞳には疑惑しか映らない。
静枝の瞳がそうなってしまったのはあの時から――そう、静香がこの屋敷から出て行ってしまったあの時からだ。
なぜ静香が屋敷を出て行ったのか?
母の言葉を静枝はすべて嘘だと否定した。
根拠などいらない。
静枝は自分の想いをかたくなに信じ、それを通してこの世界を見てきた。
だから静枝は恐ろしさを感じずにはいられなかった。
あの時からこうなったのだとしたら、それ以前のもの、その原因となったものが、現れたとしたら、価値観が一気に変わってしまうことがあるのではないだろうか。
そうなのだ、静香と逢うことが静枝は怖かった。
嘘だとしていたものが、静香によって肯定されてしまったとき、すべてが崩壊するのだ。
静香はなぜ屋敷を出て行かなければならなかったのか?
悶々とする静枝を見透かしたように、智代は微笑みを投げかけてきた。
「わかっているわね静枝さん?」
「…………」
「静香が何を言おうと信じては駄目よ。あの子はわたくしとこの屋敷、そして貴女を捨てて自らの意思で出て行ったのよ。帰ってきた理由はわかるわね?」
静枝は以前から聞かされていた。
――一族の呪い。
母の語った内容が真実とは限らず、少なくとも静枝は信じていない。
だが、静枝は現実と受け入れているものがある。
それは糧。
通常の食物だけでは生きていけない。
智代が急須から液体を湯飲みに注いだ。
「貴女も飲むかしら?」
尋ねてきた智代の顔が紅い水面でゆらゆら揺れた。
赤い葡萄酒よりも濃厚な色彩。
「いらないわ」
にべもなく静枝は返事をした。けれど、のどは乾いていた。緊張のせいかもしれない。
静枝は思い出す。
妹はこの液体があまり好きではなかった。
それとは正反対の感覚を静枝は持っていた。ゆえに静枝はその気持ちや態度を妹の前はあまり出せなかった。
智代ののど元が動いた。
それを見て静枝はうっとりとしてしまう。
――飲みたい。
あえて静枝は我慢をした。
静枝は静かに目を閉じることにした。
まぶたの裏に浮かぶ妹の姿。
そこに浮かぶの自分と瓜二つの姿。
妹の姿は別れたときから見ていなかった。にもかかわらず、想像の中の妹は静枝と共に成長した。
鏡台の前に座る度に妹に想いを馳せた。
瓜二つの双子。
いつも妹は傍にいた。
姿形を見れば、双子だということを疑う余地はなかった。
しかし、静枝は静香を真に理解できずに、ときに苦悩することもあった。
ただの姉妹であったなら、それは大きな問題にはならなかっただろう。双子であり、姿形が似ていることが問題になった。
なぜ性格が大きく違うのか?
近くて遠い存在。
この屋敷で共に暮らしていたにもかかわらず、姉妹には性格の差違があった。
双子であり、環境も同じでありながら、性格を分ける要素はなんだったのか?
四年ぶりの再開。
妹はべつの環境で育てられた。
これによってさらに姉妹の差違は広がらないだろうか。
静枝は変化を望み、変化を恐れた。
まるで同じ日々が延々と繰り返しているような箱庭の世界。
外の世界から帰ってきた妹は箱庭の世界にどんな変化をもたらすのだろうか?
時間は刻々と過ぎ、廊下から足音が聞こえてきた。
ふすまが少し開いた。
「静香様をお連れいたしました」
深々とお辞儀をした菊乃の後ろから静枝と瓜二つの顔が現れた。
静枝は自然と安堵の溜息を漏らしていた。
離れていても顔も髪型も同じ、違うのは着物くらいなものだ。静香が着ていたのは白い布地に鞠の描かれた着物。顔は同じでも、衣装のせいで受ける印象はまったく異なる。
「お久しぶりですお母様、ただいま帰りました」
智代の前に正座した静香は深々と頭を下げた。
「元気にしていたかしら?」
「はい、お母様」
「長旅で疲れたでしょうけれど、大事な話があるので聞きなさい」
静香は不思議そうな顔をした。
静枝は無表情のまま母を見つめた。そして、あの眼が妖しく輝いたことに気づいた。
「貴女たちに残された寿命はあと三年」
「っ!?」
衝撃的な母の言葉に静香は驚いた。
そして、そんな表情をした妹を見て静枝は訝しむ。
静香は言葉も出ない様子で母の顔を不安そうに見つめている。
だが、娘の不安をあざ笑うように智代は口元を歪めるのだ。
「生き残る方法はただひとつ。そのために静香さんは帰って来たのでしょう」
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)