あやかしの棲む家
「なぜ、どうして……火事なんて……」
――アツイ、アツイ、カラダガモエル。
また声が聞こえた。
目の前の火事も気になったが、呼ばれている場所はそこではない。
瑶子は廊下を掛ける。
火の手は一つや二つではなかった。屋敷のあちらこちらから火がついている。
普段は近付かない細い廊下。その先には離れの一つがある。鍵の掛かっている筈の扉が、今は開かれ中が赤く輝いていた。
すぐさま瑶子は部屋の中に飛び込んだ。
そこら中から絶叫が聞こえた。
部屋中に張り巡らされていた糸が火の橋を描いている。
繭玉が燃えている。
いくつもある繭玉が燃え、中から黒こげになった何かが這い出してくる。
それは這って瑶子の足下まで来た。そして、溶けて崩れかけている顔を上げたのだ。
「きゃあぁぁぁぁっ!!」
瑶子は絶叫をあげた。
見てしまった。
醜く崩れた自分そっくりな顔。
他の繭からも?瑶子?たちが燃えながら這い出してくる。
業火に焼かれ苦しみ悶える自分と同じ少女たち。
瑶子は助けることも見ていることもできす、その場から必死に逃げ出した。
絶叫が木霊する。
――イカナイデ、イカナイデ。
呪詛のように降りかかってくる言葉。頭の中でいつまでも響く。
なにが起きたのかわからない。
ただ、屋敷中に火が放たれ、このままでは屋敷が崩れ落ちるだけはわかる。
瑶子はこの場所からもっとも近かった静枝の部屋に向かった。
まだ静枝の部屋までは火の手が回っていなかった。
「静枝さま!」
叫びながら部屋に飛び込んだ。
そこで待ち受けていたのは瑶子には信じがたい光景であった。
包丁を握った美咲が怯える静枝の元へにじり寄っている。
静枝は眼を剥いてわなわなと唇を振るわせている。
「嗚呼、やはりお姉様はわたしのことを……靜香お姉様、お姉様、お姉様ーっ!!」
静枝は息を呑んだ。
心臓をひと突きした包丁。
傷口から垂れてきた血が美咲の手を穢した。
ぶしゃあああああっ!
包丁が抜かれると同時に迸った黒い血。
血に彩られた美咲は振り返った。
「あなたも今すぐ殺してあげる」
「ど、どうして……美咲さまが……」
後退る瑶子。
酷く躰が震えた。それは内からの振動。鼓動が激しく脈打っている。
瑶子は心臓を押さえた。
熱い。
打ち震える心臓が熱い。
呼吸もだんだんと荒くなっていく。
耐え難い動悸。
美咲は艶やかに嗤いながら近付いてくる。
「来ないで……くださ……い」
今、自分を殺そうとしている者への恐怖ではなかった。
瑶子が恐れていたものは――。
まるで内側から喰い破られるように、瑶子の躰から毛の生えた八本の脚が飛び出た。
美咲が飛び掛かってきた。
しかし、脚の数でも、その長さでも瑶子が優っていた。
美咲の躰は宙に持ち上げられながら八本の脚で捕らえられていた。
今の瑶子には人間の二本の手と足が残っている。だが、もうそれらに感覚や機能は残っていない。
それはまさに脱皮であった。
瑶子の背が開かれ、中から巨大な大蜘蛛の尻が出た。
それが元の躰のどこに収まっていたのか、瑶子の躰を遥かに凌ぐ大きさの大蜘蛛が姿を見せた。
美咲は必死な抵抗を見せた。
「この化け物めっ!」
振りかざした包丁が大蜘蛛の脚を一本落とした。
怯むだ大蜘蛛は美咲を解放してしまった。
すかさず美咲は再び大蜘蛛に飛び掛かろうとした。
だが、そのときだった!
燃える小蜘蛛たちの群れ、群れ、群れ。
全身を赤く燃やした小蜘蛛たちが美咲の躰に群がった。
「ぎゃああぁぁぁぁっ!」
小蜘蛛と共に炎に呑まれた美咲の断末魔。
それを聞きつけ部屋に飛び込んできたのは克哉と美花だった。
「出たな大蜘蛛!」
「そんな……お母様、そこで燃えているのはまさか……」
美花は立ち眩みがして床にへたり込んでしまった。
短剣を抜いた克哉が大蜘蛛に襲い掛かる。
糸が吐かれた。
嗚呼、糸までも燃えている。
炎を纏った糸が克哉の腕に巻き付いた。
「くっ、こんなやられ方って……」
克哉を捕らえようとしたのは糸だけではなかった。
足下から躰に登ってくる燃える小蜘蛛たち。
大の大人の人影が燃え上がる。
それは影絵か陽炎か。
炎による虐殺の終幕。
生き残った美花はその場から動けない。動かなければ、いつかは火に焼かれる。
不気味な絶叫が木霊した。
それは大蜘蛛の叫び。
大蜘蛛のが背中に激しい衝撃を受けて床に腹をついた。
噴き出す血が天井を彩る。
大蜘蛛の背は巨大な刃によって叩き斬られていた。
「美花様さえ生き残れば、因果は続くのです。まだここで糸を断ち切られるわけには!」
斧を振りかざす菊乃。
だが、まるで刃のように鋭い大蜘蛛の脚が菊乃の胴を貫いた。
菊乃は表情ひとつ変えなかった。
そのまま斧は大蜘蛛の脳天を割った。
大蜘蛛は息絶えた。斧が脳に達した刹那だった。
菊乃の胴には脚が突き刺さったまま。どうにか抜こうとするが、引っかかって抜けない。
火の手は広がり続けている。
手を伸ばして菊乃は斧を握った。そして、胴に刺さる大蜘蛛の脚を切断した。
そして、すぐさま美花に掛けようとしたときだった。
「美花様!」
焼け落ちた天井が美花を押しつぶした。
菊乃の瞳の奥で赤い炎がゆらゆらと揺れている。
もう助からないかもしれない。瓦礫の衝撃、身を焼く炎、そうだとしても菊乃は美花を助けようとした。
炎の中に手を突っ込み、瓦礫を退かして放り投げる。
「美花様、美花様!」
瓦礫の隙間から美花の顔を見えた。
ここまで来て菊乃は思わず手を止めてしまった。
美花の顔半分を覆う火傷――それはまるで静枝の生き写し。
動きを止めた一瞬が命取りになった。
再び崩れ落ちてきた炎に包まれた瓦礫。
菊乃までも潰され炎の餌食となった。
それでもなお、微かな声が響いてくる。
「み……は……な……」
屋敷が崩れ落ちる。
炎が焼くのは住人だけではない。
この屋敷の歴史も焼き払う。
庭から業火に包まれる屋敷を見つめている女がひとり。
「結局、いつも最後は破壊で終わってしまうのね」
つぶやいたのは慶子だった。
その手には透明な小瓶が持たれており、その中には小蜘蛛が一匹入っていた。
いつの間にか、この場にはるりあの姿もあった。
るりあの視線は小瓶に注がれている。
慶子は微笑んだ。
「欲しいならあげるわ」
「…………」
るりあは奪うようにして慶子から小瓶を取り、そのまま駆け出して姿を消した。
「大事にするのよ」
と、慶子の呟き声が響いたが、そこにはすでに慶子の姿はなかった。
炎はまだ燃え続けていた。
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)