あやかしの棲む家
6
激痛と共に瑶子は目覚めた。
自然と腹に手を伸ばすと――。
「きゃっ、血!?」
じゅくじゅくと痛む腹の傷。深い傷はまるで刃物で斬られたようだ。
そして、これはいつのことなのだが、寝る前に着た服が朝になると脱げてしまっている。菊乃に相談すると、寝相の悪さを指摘されたが、この傷は寝相の悪さだけでつくようなものではない。
「ううっ……とりあえず菊乃さんを探そう……」
薄衣を羽織った瑶子は廊下に出た。
菊乃は瑶子よりも早く起きているらしく、今の時間も自室ではなくどこかで仕事しているはずだった。
とりあえず台所へ向かっていると、その途中で菊乃を見つけることができた。菊乃は廊下の拭き掃除をしている最中だった。
「おはようございます菊乃さん」
「おはようございます」
「あの……」
「血でございますね」
菊乃の視線は瑶子の薄布に滲んだ血に向けられていた。
ぱたりぱたりと、瑶子の足下に血が落ちる。まだ血が止まっていないらしい。
菊乃は瑶子の足下を拭きはじめた。
「掃除したばかりなのですが……」
「ご、ごめんなさい! 自分で拭きますから!」
瑶子は菊乃が持っていた雑巾を奪うように借りて床を拭きはじめた。けれど、拭いている最中も血が床に落ちてしまう。
いつも表情の乏しい菊乃だが、今はその無表情さが呆れている顔に合致している。
「切りがございません。まずは傷の手当てをしましょう」
「ご迷惑おかけしてすみません」
「いつものことでございます」
瑶子は菊乃に連れ添われて自室に戻った。
全裸にされ横になった瑶子の傷口を菊乃は観察した。
「寝ながら料理でもしたのでしょうか?」
「あたしそんなに器用じゃありません」
「器用ではないから怪我をしたのでしょう。本当にあなたは寝相が悪い」
寝相が悪いことは自覚をしている。起きると自室から離れた廊下などにいることはしょっちゅうだ。だとしても?斬られた傷?がつくだろうか。
「本当に寝ながら料理してたのでしょうか?」
「なにを料理するつもりだったかは存じ上げませんが、きっとそうでしょう」
「そうですかぁ?」
「そうです」
納得はできないが、菊乃は言い切っている。真面目なそうな表情をいつもしているので、冗談なのかもわからない。
瑶子の傷口に薬が塗られる。
「いたたた、それ染みます」
「傷が染みるのは当たり前でございます。傷は塞がりはじめているので、薬を少し塗り込んで布を当てておくだけにしましょう」
「痛いです、とっても痛いです、なにもしないほうが痛くなかったですよ」
「傷口が化膿するよりはよいでしょう?」
「……はい、そうですね」
瑶子は押されるとなんでも認めてしまう。そういう性分だった。
傷の手当てが終わると、早々に菊乃は部屋をあとにしようとした。
「それでは失礼いたします」
「もう行っちゃうのですか?」
「ご家族が起きてくる前に廊下を掃除しなくてなりませんから」
「それならあたしが……うっ」
立ち上がろうとした瑶子だったが、傷口がずきりと痛んだ。
「痛みが治まるお休みください」
「いえっ、でも掃除させてください!」
「仕方がありませんね。しかし、あさげの支度はわたくしひとりで行います」
「すみません」
こうして菊乃は朝食の準備を、瑶子は廊下の掃除に向かった。
床に残っている血痕をすべて拭き取る。
まだ乾いてない新しいものだ。
しかし、その中にすっかり乾いて大きな血痕があった。
「あれ……これってあたしの血?」
瑶子は濡れた舌を伸ばして、床の血痕を舐めた。
「やっぱりあたしの血じゃないなぁ」
血の味でわかるものなのだろうか。もし本当に瑶子の血でないとしたら、いったい誰の血なのだろうか。
掃除を終えた瑶子は雑巾を洗って干すと、やることもなくなり部屋に戻ろうとした。
その途中で美花と出会った。
「おはようございます美花さま」
「おはようございます」
そのまますれ違おうとしたが、急に瑶子は腹が痛んだ。
「うっ」
小さな声だったが、美花は気づいたようだ。
「どうかしましたか?」
「いえ……ちょっと怪我をしてしまって……」
「怪我!? それは大変、少し見せてください」
「もう菊乃さんに手当はしていただいたので平気ですよ」
「自分で手当てできないほど酷い怪我だったのですか、どうしてそんな怪我を……」
「どうしてなんでしょう……起きたら怪我をしていて、寝相が悪いのはいつもことなのですけど」
怪我の原因はまだはっきりとしない。
美花は心配そうな顔をしていた。
「お部屋でお休みになってください。早く良くなってくださいね」
「菊乃さんからも休みようにいわれてますから。美花さまは本当にお優しいですから、そんなに心配しすぎないでくださいね、本当に平気ですから。それでは失礼します」
長く話し込んでも美花を心配させるだけだと思って、瑶子は笑顔でその場を早々に立ち去った。
自室に戻ってきた瑶子は、布団で横になることにした。
じっとしていることは嫌いではないが、菊乃に仕事をすべて任せてしまったり、だれかに心配をかけることは申し訳なく思う。かと言って無理をして元気に見せ、もし悪化してしまったら逆に周りに迷惑をかけることにしなってしまう。瑶子は静かに休むことにした。
まぶたを閉じると広がる闇。
視覚が閉ざされると聴覚が研ぎ澄まされる。
気配がした。
屋根裏からの気配だ。
その気配は移動を続けながら、押し入れで静かな物音を立てた。
瑶子は目を開けてそちらを見た。
「おはようございます、克哉さん……でしたよね?」
「休んでるとこすみませんねぇ。なにか病気ですか?」
「ちょっと怪我をしてしまって」
「寝こむほどの怪我?」
「そんな大したことないんですよ。ただみなさんが休むように言うので、心配をお掛けしたくないので安静にしてして早く直したいだけです」
克哉は一定の距離を保ちながら、その場で立ったまま話を続けてきた。
「それでどこを怪我したんで?」
「お腹が切れちゃってて、なんで切れてしまったのかわからなくて、菊乃さんは寝相が悪いからだなんて言うんですよ」
「ちょっと傷を見せてもらってもいいですか?」
「嫌ですよぉ」
「ですよね。怪我人なら休んでてくださいよ、ではまた」
克哉は再び押し入れから屋根裏に戻ろうとした。
そのとき、瑶子は克哉が手に巻いている布がふと見えた。朱い何かが染みていた。きっと血だろう。
不思議に思いながらも、瑶子は深く考えずに目を閉じた。
躰が傷を治すためだろうか、なんだかとても眠くなってきた。
そのまま瑶子は自然に身を任せることにした。
――アツイ、アツイ、アツイ。
そして、無数の叫び声。
泣き叫んでいる。
何かが何処かで絶叫をあげている。
大量の汗を掻きながら瑶子は飛び起きた。
部屋は暗い。
胸騒ぎがした。
瑶子は蝋燭台を持って廊下に出た。
静かな廊下。
すでに夜更けになってしまったらしい。
――タスケテ、タスケテ。
瑶子の頭の中で言葉が木霊した。
呼ばれている。何かに呼ばれている。
廊下の先で轟々と燃え揺れる灯り。
それが火事だと瑶子はすぐに悟った。
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)