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二人の孤独

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 彼女の息遣いが聞こえてくる。震えている。寒いのだろうか。Tシャツの裾を握りしめて、震えを必死で抑えようとしている。
「神様は、何の価値もおれらには与えてくれなかった。あれだけたくさんの御言葉を与えていながらだよ。だからこそ思う。価値っていう考え方自体がアンナチュラルな思想で人生みたいに本来的にナチュラルな営みには適応されないんじゃないかって。だから人生における正義とか道徳に価値は通用しないんだよ」
「違うの。私は正義や道徳のために死にたいんじゃないの。ただ生と死は等価値でなければならない。しかもそれは、生きている時の名誉や財産とは何の関係もないわ。死の価値は事物の絶したところにあるのよ。自分の生と死がどうしたら等価値になるのか、それだけを、私のこの虚弱な肉体は憂いているの」
 彼女は言い終わった後に小さく息を吐いた。ますます震えが増して固まったようにTシャツの裾を掴んだまま彼女は立ち尽くしていた。
「人は自分のためだけに生きられるほど強くない。だからこれだけは言っておく。僕は君と出会って本当に嬉しいんだよ。あの昼休みに由子が僕の前に現れてから何もかもが変わった。僕の気持ち、そして中庭の植物の葉に降り注ぐ日光も、これまでとは何かが決定的に変わったんだ」
 言い終わると、僕は彼女の震える腕を捕まえた。彼女の体は鍛えてはいても女の子であった。とても華奢で僕の腕の中で震えていた。
「バカ。もっと早くこうしてよ。寒かったでしょうが」
 彼女の話す息が僕の首元を掠めた。温かい。この細い体のどこからこんなにも熱が生まれるのだろう。小鳥のように淡く小さな熱だ。僕らはしばらくそうしてお互いを温めあった。そして彼女がいつになく柔らかい声で言った。
「ふと思ったの。こんなイージーなことに意味はないって、ずっと思ってた。でも、これは何よりも深くて不思議だわ。そして温かい」
 彼女の温かく湿った息が、Tシャツの生地を通して僕の胸元を熱くした。

第七章

 私の中に流れる血。何の意思もなく私を生かし続ける。
 抱き寄せられた腕の中で、私はただ彼の温もりを感じていた。この温もりをもう二度と失いたくない。たとえ、彼から離れたとしても、私の肉体がこの熱いものを宿し続けるにはどうしたらいいのだろうか。
 小学四年の夏、私が十歳を迎える八月十日。私の両親は私を残して死んでしまった。自殺だった。
 十歳だった私には、何の理解も許容もなかった。それでもこの事件が私の人生に何がしかのドラマを与えたというのは分かった。それまで両親の愛を一身に受け、溺愛されていた。現実の中で溶け込み癒着していた私の愛は、これを機に現実とは違うドラマチックな世界へと遊離していった。
 外科医の父と小説家であった母。二人の間にどんな会話が交わされていたのか。今となっては想像するしかない。両親がどんな過程で死に向かっていったのか。病院のベットで薬物自殺をした両親の顔は眠っているようで、死んでいるとはとても思えなかった。そこには両親の死のメッセージとでも言うべきものは何もなかった。そこにあったのは、死体ですらなく、私の短い人生における蒼枯とした記号ともいうべき無味なものであった。
 この出来事の後、私は自分でも信じられないほど悲しむことをせず、家に引き籠ったり、一日中涙を流し続けるということはなかった。これは私の中で全く予期されたものではなかった。そして、私はそれまで以上に自分の人生に没頭していった。
 それまでは、内向的で世間知らずの箱入り娘だったが、先生やクラスメイト達とよく話すようになり、人との付き合い方も分かるようになってきた。勉強や運動にも積極的に取り組んだ。それまでも学校の勉強の成績は良かったが、学んだ内容の意味なんてものには無関心であった。あの事件から、どんなことでも学ぶことによって、私は私を拡張してきた。
 地元の中学に入り、陸上部に所属した。私は細く青白い肌の手足から連想される、いかにも運動が苦手そうな女子だった。陸上部に入った動機は母が大学で短距離の選手だと叔父から聞いたからだった。虚弱にも近かった体も三年間で、筋肉と血色のある肌の輝きが満ちて、誰から見ても健康優良児になった。県大会でも優勝できるほど急速に記録も伸びたのは、アスリートであった母の遺伝子を受け継いでいたからかもしれない。
 その影響もあってか、私はますます行動的になっていった。学級委員や生徒会長、あらゆる学校行事の執行委員で中心的に活動していった。しかし、数々の活動をしながらも、自分の求めているものとのギャップにいつも悩んでいた。私は叔父に懇願して、県内トップの私立高校に進学することに決めた。それはもっと頭のいい人たちと話してみたい。私の感じているような違和感を頭のいい同級生も感じるのかを知りたかった。動機はそういう安易なものだった。
 高校に入学して、そんな私の期待はあっさり裏切られた。同級生たちは男も女もみんな過保護に飼いならされたひな鳥のようだった。自分の置かれている状況すら呑み込めずに、与えられたものを頬張る。私の高校生活は、たくさんの友達に囲まれながらも、自分だけが違う時間軸にいるような孤独ですらない絶望感があった。そんな時に私は彼を見つけた。そう、まさしく知り合ったのではなく見つけたのだ。

第八章

 高校二年になりクラス替えをして、私はまたクラス委員になった。私は教壇からクラスを眺めながら、彼を盗み見ていた。彼はいつも本ばかり読んでいた。クラスの役割分担や授業の時ですら。周りのことなど知らぬ存ぜぬといった態度で、窓際の前から五番目の席で本を読みふけっていた。私は意地悪く彼に話を振った。
「飯田くん、何か意見はありますか?」
 すると彼は開いた本を手に持ったまま、すくっと立ち上がった。そして面倒だという態度を全面に押し出して溜息交じりで言った。
「勿論、何もかも、それで問題ないよ。委員長さん」
クラスのみんなは彼が教室の空気を不快にするのを知っているらしかった。私が話を振ると決まって小話が止み、皆の視線が硬直する。
 教壇からの景色では彼だけ明らかに次元の違う場所にいるみたいで、そこには何の交流もなかった。私はどんな本を彼が読んでいるのか気になってそっと覗いてみた。そして思わぬことに、わずかな文章の断片を見ただけでその本のタイトルが分かった。私は繰り返し何度もその本を読んだからだ。それは三島由紀夫の「潮騒」だった。三島文学の中でも独特の光を放つ作品だ。彼の凄惨な死とは、とても結びつかない。そこに描かれているのは人や人の生きる世界の純然たる自然美だった。
 そう、だから私は彼の人物像をイメージできなくなってしまった。クラスでの嫌味な彼と、潮騒を読んでいる彼。その隔たりから私が思ったことは、彼は深い溝を心の中に持っていて、あるいは私のこの呪いを解いてくれるのではないかということだった。
 彼に近づき、知れば知るほど、彼がいかに繊細で、しかし丈夫な心の持ち主であろうということを知った。
作品名:二人の孤独 作家名:フライト