二人の孤独
その週の土曜日の夜、僕は彼女と会うために約束の時間の三十分前に家を出た。その日、両親は仕事で帰って来ない。僕は家中の戸締りをしてから、誰もいない家を背に自転車にまたがった。六月の夜は湿気を帯びていて生暖かい。十分くらい自転車をこいで嘉多山に着くころには、首筋が汗でベタ付いていた。その時にやっと夏がすぐそばまでやってきていることに気が付いた。
展望台まで続く階段の下に自転車を停め、長い階段を登り始めた。公園として整備された山の階段は登りやすく、時々は小走りで展望台へと急いだ。水分を豊富に含んだ梅雨の草叢は湿気と一緒に土の匂いを運んできた。夜の公園は虫たちのささやかな声と静寂が交互に支配していて、静寂が訪れるたびに近くに人の気配がないか、僕の全身はわずかな空気の揺らめきにも反応した。僕は草壁由子のことを考えていた。
彼女は本当に展望台に来るのだろうか。いるとしたらどんな顔でいるのだろう。僕は学校以外で彼女を見たことがなかった。いつも凛と背筋を伸ばした彼女しか知らない。彼女が家庭でどんな少女を演じているのか。休みの日にはどんな格好で過ごしているのか。そんな素朴な疑問が僕の想像力のほとんどを占めていた。
途中に和白檀の叢林があった。相変わらずひっそりとその存在を僕にだけ主張してきた。僕だけが彼らの存在を分かってあげられている。いつもなら必ず立ち止まる場所だが、今日は先を急いだ。
十分も階段を休みなく登り続けてやっと展望台が見えてきた。夜目を凝らして見たが、そこに誰かがいる気配を感じ取ることはできなかった。そこから展望台まで走った。脚にじんわりと苦痛の波が押し寄せてくる。だんだん動きが悪くなる。リズムが崩れ、走っているのか歩いているのか分からなくなった。それでも自分ではそのままの勢いでとうとう展望台の手前までたどり着いた。僕は乱れた呼吸とTシャツの首元を整えて、展望台の白いコンクリートの階段を登り始めた。脈打つ心臓は疲れと期待と不安と好奇心で、小説を読んでいる時の切なさにも似た感触だ。
そして階段を登りきると、そこに草壁由子がいた。
第六章
「ちょっと寒いね」
彼女は両腕を胸の前で組んで、腕を擦りながら言った。白いTシャツにスキニーのジーンズを穿いている。暗い展望台ではプリントしてある柄までははっきり分からない。でも、彼女の表情は学校の時となんら変わらないように見えた。
「でも風がないだけマシかも。それに夜の展望台って人もいないし、すごく静かだ。」
手すりに寄りかかって街を見下ろしている彼女の隣に向かって歩きながら、僕は言った。
「見てよ。この町の夜景を。キミはいつも中庭ばっかり見てるから、見せてあげたかったの。銀が散りばめられたこの町の夜を。それが今日ここに来た一つ目の理由なの」
僕は手すりから体を乗り出してできるだけ近くで夜景を見ようとした。銀色に光る街灯が道に沿って規則的に並んでいる。一方でその道と道は、不規則にぶつかり合っている。夜の町は闇の中で不思議な模様を描いていた。
僕はこの夜景を見た瞬間に何かとても重要なことに気付いた気がした。押し黙ったまま手すりを握りしめ、結論を急いだ。それが何なのかはっきり分かる間もなく彼女は続けて言った。
「私ね。時々こうやって夜景を見るんだ。そしてこう思うの。あぁ!私はこんなちっぽけな町にいて何もかも経験した気になって思い悩んでる。いつかこの町を出て、もっとたくさんのことを経験したい。自分すら知らなかい、まだ眠りについている感情を覚ましてあげたいと思うんだ!」
彼女でも思い悩むことがあるのか。僕から見たらここまで才色兼備な人はいないだろうというのが印象だ。いったいどんなことに悩んでいるのだろう。僕はこの疑問を彼女にぶつけるかどうか迷った。そしてこの時初めて、彼女にとって自分がどういう存在なのかを意識した。おそらく恋人だったら素直に悩みを聞くことができるのだろう。僕たちの関係というのは、昼休みの数分間話すだけの関係だ。実際、それ以外の授業や休み時間に彼女と話すようなことはほとんどない。
「ねぇ。黙ってないで何か言ってよ。私だけ思春期っぽいこと言って恥ずかしいでしょうがー!」
彼女は少しばつが悪そうに、下を向いて右手で頭をかいている。さっきより目が潤んでいるように見えた。
「えっ、ごめん。あの、草壁さんでも悩むことあるんだな」
「当たり前だよ!私をなんだと思ってたのよ。キミと同じ人だよ?あと、草壁さんって呼ぶのやめてよ。気色悪いから」
「何て呼べばいいんだ?あとおれの名前はキミじゃなくて和真だから」
彼女は目を丸くして僕から視線を逸らした。
「お互い様だったね!じゃあ和真って呼ぶことにするわ。私も由子でいいよ。普通に」
「なんか今更だな。でも相手を何て呼ぶかを迷うのって、話すときにこんなにも壁になるんだな。特に仲良くなってくると」
僕は瞬間に、この夜景を見て気付いたことが何だったのか分かった。僕を取り巻く環境はこれまでとても規則的だった。決まった学校の日程を消化して、毎日決まった中庭を眺めて、本を読む。インターネットをしたり、ゲームや買い物をしたり、人と話している時も、僕はある種の規則から逃れることができなかった。どこまでも、誰かが作った規則性が続いていた。でもそれがある日突然、違う規則性に変わった。まったく別の世界になった。あの春の日、中庭で、彼女が僕の前に現れた時からだ。
僕は勢い余って彼女に聞いた。
「由子の悩みってどんなことなんだ?おれの悩みとは違うんだろうな。多分だけど」
彼女は僕の質問に対して表情を変えなかった。じっと遠くを見つめている。僕はそこからピンと張りつめた夜の空気と似た緊張を感じた。生暖かい空気の中で彼女の唇はかすかに震えているように見えた。さっきまでは変わらず寄せては引いていた彼女の感情の波を止めてしまったのかもしれない。彼女に向けた強い好奇心を僕はそっと抑え込もうとした。すると彼女はそれを引き留めるかのように言った。
「自分がどのように死ねばいいかってことよ」
僕の好奇心はいとも容易く引きずり出され、すぐに答えた。
「どんなふうに死にたいんだ?」
「価値ある死に方よ。この体を八つ裂きにされて辱められてもいい。スカイツリーに裸で磔にされてもかまわないの。ただそれだけ。それだけのことなのにさっぱり分からないのよ」
「なんでそんなに価値にこだわるんだ。あらゆる事は目的もなければ価値も無いじゃないか。それを受け入れて生きるしかない。」
僕ははっきり答えた。これはいつも思っていることだったし、そうやって生きてきた。
彼女は僕のほうに体を向け、一歩近づく。二人の身長差は十センチくらいあるだろうか。怒ったような悲しいような顔で彼女は見上げてきた。二人の体は触れそうなほど近く、体温が伝わってきた。駆け上がるように早くなる鼓動と比例して、僕の体温は上がっていった。
「でも、それって結局は自分の内なる価値をそれぞれが携えなきゃならないのよ。そんなもの大半の人のものがまやかしよ!みんな自分に嘘をついて、それを演じているだけ。嫌よ。そんな喜劇的な死を迎えるのだけは」