二人の孤独
「当り前よ。ファンだもの」
彼女は廊下の壁に背中を預け、顔だけ僕の方に向けて言った。トレーニングで疲れているのか。彼女の肩から指先は、地球の重力に何ら抵抗せずに廊下に垂直に垂れている。
「ファン?大げさだな。それに作者は死んでるんだろ?詳しくは知らないけど」
「ふふ。そうね、少し大げさかもしれないね。でも、今の私にとって彼が大きな存在なの。それが光なのか闇なのか。天使か悪魔か。味方なのか敵なのか。兄弟なのか赤の他人なのか。分からないの。そういうことってない?すぐそこにあるけど、何なのか分からない。ただ存在としか言えないの」
「あるよ。いつもそう、そんなことを考えてる」
僕は少し嬉しくなって、早口で答えた。彼女が想像と違って難しいことを考えていて、それを素直に口に出したことに驚いた。女の子は流行や恋の話ばかりして、はしゃいで、例えばそれを深く問い詰めるなんて野暮なことはしないと思っていた。
僕が次の言葉を言おうとした瞬間、遮るように予鈴が鳴り二人の時間は壊れてしまった。僕らはそれから黙ったままだった。僕は二歩くらい先を行く彼女のすっと伸びた背筋、それと短パンから覗く、白く真直ぐな脚が確実に地面を捉えて歩くのを目で追いながら教室に戻った。
第三章
それから僕と草壁由子は、昼休みの度に廊下で話した。僕たちはどうでもいいことを、どうしようもないことをたくさん話した。途方もない人生のことを。彼女は情報通で僕の知らない身近なことも話してくれた。そして僕は彼女の話を馬鹿みたいに相槌をつきながら聞いた。人が話している時は静かに聞くものだ。これは母さんの口癖で、父さんがすぐ口を挟んで母さんの話を遮ってしまうためだった。
僕は今までこんなふうに何のフィルタもかけずに親以外の誰かと話したことはなかった。だから嬉しかった。僕は仲の良い兄妹と話すように容赦なく想いを言葉にした。今までどこにも行き場のなかった、たくさんの感情が彼女に向かって飛び出していった。聞いてほしくてたまらなかった。そして色々話した後に、自分がどこまでも普通の高校生で、クラスメイト達と少しも変わらない存在なのだということに気付くのだった。
僕が話している時、彼女は僕の目をじっと見つめてくる。彼女の目は自在に感情を表現した。楽しくなると潤みだし、つまらない話になると僅かに光を失う。彼女の瞳の輝きが失われないように。僕はそれだけに細心の注意を払った。
窓を開け庭の空気を吸う。中庭の木々や草花の僅かな移り変わりを感じるために神経を研ぎ澄ませる。今日は雨上がりで、四角い中庭に校舎の縁に沿うように植えられているアジサイの香りが中庭の空気を満たしている。新鮮な青の匂いだ。
「でも、私は思うの。菜食主義の哲学者はたくさんいるけど、その中にアニミズムを前提に論考をした人がいたかしら?」
彼女は雄弁だ。中庭を廊下の窓から眺めながら、誰に答え得られるはずのない考えを窮屈な校舎から吐き出す。
「おれは、あの桜の葉一枚一枚に隠された秘密があると疑っているよ。でも、あいつらは絶対に自分の秘密について明かすことはしないから。いくら考えても、それは証拠のないイメージにすぎない」
読書はするが、考えを他人に言いふらすことを僕はしない。いやできない。でも彼女との言葉の掛け合いで、心の底から自分でも意識しないままに芋蔓式に思考が言葉となって出てきた。
「証拠なんてこの世にないものね。人は自分の解釈で決めた証拠を証拠と呼ぶのだもの。私という存在もイメージにすぎないのかしら。でも、それって何だかとても空しいわね」
「だからお互いに証明し合うんだ。そのためにキスだってセックスだってするんだろ。それが気休めだって知っていてさ。」
僕は目の前にいる少女の透明でふっくらした頬を見てから、今言ったことを後悔した。あんなにも潤った彼女の眼や唇、頬。そこに僕にとっての本当の謎や神秘があって、僕の心は五感という檻からそれらに直接触れようと手を伸ばしている。僕は自分の皮肉な言葉とは裏腹に自分の肌が彼女に吸い寄せられていることに軽い罪悪感を覚えた。
彼女はそれきり黙っていた。いつもはエネルギッシュにつりあげられている口角はどこまでも続く地平線のようにまっすぐになり、開かれることはなかった。
第四章
「ねえ、今週の土曜日の夜に会わない?」
「え?なんで?しかも夜に」
「キミに会いたいから会うの。それにここじゃできない話もしたいから」
彼女の急な申し出に、正直言って困惑した。僕は小学校以来誰かと学校の外で遊んだりしていなかった。それに、ここではできない話とは何なのだろう。僕に会いたいとはどういう意味なのだろう。頭の中は疑問符で一杯になったが、彼女のストレートな物言いに僕の心臓は正直に鼓動を早めていた。その血流は疑問符を押し流しはしなかったが、幸い僕の舌を饒舌に動かした。
「分かった。もちろんいいよ。おれも、たまにはここが以外で話すのもいいと思ってたし。でも夜に会うって、どこで会うんだ?」
「嘉多山の展望台って行ったことある?」
「あるけど夜はないな」
「それじゃ、夜に嘉多山の展望台で会いましょう」
嘉多山というのは僕のお気に入りの山で高校のすぐ裏にある。山全部が公園のようになっていて、三百本のソメイヨシノが植わっている。桜の季節はたくさんの人が訪れ、人々は隆盛を誇る桜に感嘆と称賛の声を浴びせる。
でも、僕がこの山を気に入っているのは別の理由からだった。桜の木が多く生える山の中に一画だけ、別の木の叢林がある。それは和白檀の林だ。樹齢百年を超えているとは思えないほど細い幹、葉は杉の葉と似ていて見分けがつきにくい。これほど和白檀が叢林しているのは日本ではないらしい。
僕はこの木々に、廃れたこの古い町と、その中の一人でしかない自分自身を重ねる。そして僕は林の中でこの和白檀たちの声を聞くのが好きだ。「なぜ私たちはここに植えられたのだろう」和白檀たちは遠い中国からやってきて寺院も何もない山の一画に植えられ、そこで生涯を送ることを余儀なくされていた。誇りも意味も剥奪され、代わりに彼らに与えられたものは劣等感だろうか。それとも百年という月日でそれはもう虚無へと姿を変えただろうか。彼らは葉や枝を足元に落として、ただ雨を待ち、終わりが来るまで堪えている。僕は彼らとの対話の中で自分の陳腐で安上がりな誇りが限りなく無意味であるということを確認するのであった。
「それじゃあ、約束だよー!」
彼女はまるで中庭に向けて話すように窓から体を外に乗り出して中庭一杯に声を張り上げた。何人かの生徒がこちらを見たが、彼女はそんなことお構いなしといった態度で続けた。
「展望台で会いましょー!」
彼女の声は中庭の吹き抜けを飛び出し、学校中に響いていたんじゃないだろうか。僕は教室の席に座り、あの清々しい性格を持つ草壁由子のことを思い出して、何故だか少し胸が軽くなった。
第五章