りんみや 陸風の美愛
ケラケラと妻は笑って納得したようだ。本当は、もう移動するだけで辛い身体なのだ。祖父の別荘に移るのも、延命治療のためで、この一年はほとんど眠って過ごすことになるだろう。そんな人間に浮気などできる訳がない。妻も知っていて、わざとそう言う。日常的な出張だと思っていたいからだ。ふたりがそんなたわいもない話をしていると、ドアがノックされて九鬼が顔を出した。そろそろ時間だと迎えにきた。
「なあ、クッキー。真理子がニューヨークで浮気すんなって説教するんだ。俺って、そんなに信用ないのかなあ。」
「ないだろうなあ・・・おまえ、眠っちゃったら起きないじゃないか。DGに悪戯されても気付きもしないんだから、あれは浮気に該当するぞ。」
ほら、ごらんなさいと真理子は夫の手を取って引き起こした。余計なことを・・・と九鬼に苦笑した顔を向ける。
「でも、今回は大丈夫だ、真理子。おじいさまと一緒だから、いくらDGでも寝込みを襲うのは無理だ。安心していい。」
それがフォローかあ? と夫は頭を掻きながら、部屋を出る。続いて九鬼がアタッシュケースを持って出る。最後に真理子が部屋の扉を出た。
「じゃあ、真理子、行ってくる。」
「うん、気をつけてね、みやくん。」
いつものように挨拶して、夫は出かけた。それを見送って、真理子は部屋に逃げ込んで泣いたのだ。夫の周りにいる人間すべてを騙して、夫は自分で幕を引くことを選んだ。その共犯者に真理子を選んだのだ。だから、誰にも告げられない悲しい別れだった。
五年して、ひょっこりと城戸は屋敷に現われた。夫が予告した通り、娘は最初から城戸に懐いた。それを眼にして、真理子は心に決めた。やはり、城戸はひとりだった。まだ、夫が死んだことすら認められない状態で、空虚な心で存在していた。このまま放置すると、城戸は壊れるか人間としての感情を締め出してしまいそうだった。それが美愛を眼にして、少し感情が揺らいでいた。
「絶対に美愛はりっちゃんに懐くよ、それは拒絶しないでね。」
夫の言葉が頭にぐるぐると廻っていた。死に際の頼み事は叶えるつもりなどなかったのに、なぜか、その時に叶えたら自分も救われるような気がした。だから、城戸が屋敷で静養することが決まって、すぐに求婚した。相手はびっくりしていたが、美愛の父親になってほしいという真理子の願いには、すぐに了承してくれた。もうすでに、城戸は美愛なしには空虚な心を埋める術がなくなっていたからだ。
「一応、籍を入れて夫婦にはなるけど・・・マリーはゆきの奥さんであることは変わらない。・・・私はゆき以外の人間と接したことがないので、マリーが日常的なことは教えてくれるかい?」
城戸はそう言って、頭を下げた。つまり、真理子に手は出さないというのだ。意外な言葉に真理子のほうが戸惑った。そういうことも覚悟はしていた。別に夫婦になれ、と夫から奨められているのだから、夫だって承知のうえだったろう。
「あの・・・リッキー・・・私は別に・・・そういうのは・・・本当に夫婦になってほしいのよ。」
「それは無理だ。ゆきの奥さんに手なんて出せないよ。・・・・美愛の父親という役割だけで十分すぎるほどだ。だから・・・すまないけど、そういうことでお願いします。」
城戸の腕で微睡んでいる娘を、彼は穏やかに眺めてそう言った。娘は城戸から、けっして離れない。ずっと、こうやって傍に居る。まるで、夫からの頼み事を知っていたように城戸の傍に居る。
「・・・仕事はやめて、屋敷に住むよ。リィーンと同じで髪結い床の亭主になって、美愛の傍に居るけど、それでいいかな?」
もともと、ゆきが弱って屋敷に閉じ込められる時が来たら、そうするつもりだったから・・・と、城戸は静かに笑った。
「何もかも捨てて、最後までゆきの世話をするつもりだったから・・・それがゆきの娘を育てる手伝いに変わるとは意外な結末だ。この子は成長していくから楽しみだ。ゆきは眠るのを見守るだけだったから・・・嬉しいな・・・」
ぽつりと呟いた言葉が明るくて、本人も驚いて真理子に眼を向けた。そんな懐かしいことを真理子は思い出していた。いつからか、自分は今の夫が傍に居てくれることに安心感を感じた。亡くなった夫から譲り受けた事業をこなすために世界を飛び回ることになっても、屋敷に戻れば娘と今の夫が迎えてくれるのだと思うと嬉しかった。娘は実の父親がそうだったように、新しい父親に甘えていた。どこに行くのも一緒でなければ駄目なほどにである。城戸は本当に全てをやめて、美愛の傍に居座ってくれた。時には叱って、時には甘やかして・・・美愛を育てることだけに生活を変えた。美愛が十六になるから、離婚しようと言い出したのは、おそらく父親の役目も終わるから、夫婦でいる必要はないだろうという夫なりの結論なのだろう。はい、そうですか、と簡単に解消できるなら楽な話だ。みやくんなら、バカって叩いて説教できたんだけどなあ・・・さすがに、リッキーにそれはできないものね。でも・・・離婚なんてしたら、あの人はまた一人になってしまうのに・・・病気になってしまったらどうしょう・・・・なんとか、このまま一緒に住んでくれるように頼んだほうがいいのかしら・・・
夫が言い出したことは、それなりの波紋を喚んでいる。妻の方はすっかり夫婦として、このまま暮らすものと思い込んでいたからだ。十年、連れ添ってみて、こんな関係の夫婦もありだと自分でも認められたし、なにより夫が自分を妻として見てくれているのが嬉しかった。それも、亡くなった夫を今でも忘れずに愛している困った女である。自分でもとんでもないと自覚しているのに、今の夫は、そんな自分を全部一括りにして受け入れてくれている。ユキを忘れる必要はないから、と最初に夫はそう告げた。それに甘えて、今でも亡き夫の話を今の夫にするくらいだ。ポロポロとひとりでに涙が零れた。これは甘えていた罰かもしれない。今の夫に甘えてばかりいたから、夫に愛想を尽かされたのだ。どうしよう・・・大きくため息を吐いて窓の外を見上げた。一人になるなんて絶対に嫌だ。それに、夫が一人になってまた感情をなくしてしまうことも心配だ。
「ママ 、入るわよ。」
娘が声をかけて入ってきた。背後には夫も一緒だ。困ったような顔をしている。
「ねえ、ママ・・・・りっちゃんの話をきいてくれる? りっちゃんね、今まで自分が家族だってこと、わからなかったんですって・・・私が家庭崩壊させるなって説得したの。どちらにせよ、りっちゃんは私の傍から離したり出来ないのよ。」
ほら、と父親を母親の横に座らせて、娘は父親の横に陣取った。さあ、と父親に発言を求めるように手を差し出した。困ったなあと苦笑いをして、やっと夫は妻を見た。
「マリー・・・・申し訳ない・・・さっきの話はなかったことにしてもいいだろうか?
もし、マリーが望んでくれるなら、美愛が大人になって父親の役目が終わっても、このまま夫婦で最後まで付き合ってほしい・・・・もちろん、ユキのところに逝ったら、ユキの奥さんに戻ってくれて構わないから・・・」
作品名:りんみや 陸風の美愛 作家名:篠義