りんみや 陸風の美愛
「ねぇ・・・真理子・・・最後に頼みたいことがある。それは、頼み事だから、嫌ならやらなくてもいい。とりあえず、聞いてくれる?」
うん、と頷くと、ありがとうと穏やかな声が聞こえる。抱き締めてくれる胸が声で震える。こんなふうにされることも、もうないのだと彼女はきつく自分の腕に力を込めた。
「・・・俺がいなくなって、もし、りっちゃんが、やっぱり誰とも付き合わなくなったら・・・その時は、美愛のパパにしてほしい・・・たぶん、りっちゃんは断らない。それに、りっちゃん以上に美愛を庇護してくれる保護者はいないからね。・・・・りっちゃんに美愛のことは頼んで逝くから、たぶん、りっちゃんは屋敷に来る。その時に、もし、真理子が嫌でなかったら・・・・結婚してくれない? 」
「はあ?」
突然に突拍子もない頼み事に、妻はあんぐりと口を開けて、夫を真正面から睨んだ。まだ、死んでもいないくせに再婚しろとはふざけた戯言だ。ニコニコと笑っている夫の頬を強めに抓ってやる。バカ、と叫んでいる自分に、「痛いじゃないかあ。」と笑って返す。どんなに自分が夫を愛しているのか知っていて、そんな頼み事をするのは間違っていると反論した。わかってるよ、とさらに笑う。どれほどに自分を欲してくれていたのかは知っている。わざわざ待っていてくれた彼女に告げるには酷な言葉なのも承知の上だ。それでも、この機会を逃したら伝えられないから頼むのだ。
「別に、結婚といっても真理子が本当にりっちゃんを愛してほしいなんて頼んでないよ。美愛に父親を与えてほしいんだ。両親が揃って愛情を注ぐのが一番だ。それが血縁とか、そういうものじゃなくても気持ちがあれば十分に本当の親子になれる。それは俺や真理子が経験済みのことだろ? 俺は母親ができて、淋しいことを理解できた。たぶん、両方いるほうがいいんだと思う。りっちゃんなら、美愛を大切に育ててくれる。それだけだ。」
もし、真理子が他の誰かと結婚したいと思うなら、それは別だけどね、と、さらに非道いことを言う。そんなもの、あるわけがないだろう。無理遣りにでも欲しいと想うほどに焦がれた相手と結婚したというのに。
「バカ、人でなし・・・みやくんなんか大嫌い。」
ボカボカと本気で叩いて、夫を突き飛ばした。華奢な夫は、それだけでよろけて座り込んだ。それを眼にして、慌てて横に座り込む。ごめん、ごめんと謝って、その顔を見上げた。クスクスと肩が揺れて、夫は泣いているような顔で自分に謝ってくれる。
「ごめんね、真理子・・・俺はもう何も美愛にしてあげられないからさ。せめて、後釜のパパを推薦したかったんだ。そんなに嫌なら、真理子が思うようにすればいい。・・・・俺は真理子に全部譲ると言ったんだ・・・譲った後は真理子が好きにすればいい。ただ、俺の言葉、覚えておいてね。」
たぶん、城戸は一人になって、ぽっかりと空いてしまった心の穴を塞ぎもせずに生きていくだろう。りんのように、瑠璃がいれば少しは埋められる。城戸には、それさえもない。自分を大事に守っている間に、そんなものは後回しにしてしまったからだ。
「・・・美愛はりっちゃんに懐くと思うよ。それは拒まないでやってね。・・・・二年しか夫婦でいられなくて、ごめんね。でも、とても楽しかった。真理子が、しわしわのおばあちゃんになって俺のとこへ来るのを気長に待ってる。いっぱいいろんなこと・・・後で教えてね。」
「うん、待っててね。美愛がどんなに成長したか話してあげるから・・・ありがとう、私の我が侭いっぱいきいてくれて・・・あんまり良い奥さんじゃなかったけど、向こうではちゃんと良い奥さんになれるように修業しておくわ。」
そんなものは存在しないのだと、真理子は知っている。りんが夫に待っていろと暗示をかけたから、夫は天国にいくのだと信じている。そこで待っていれば、また逢えるから寂しがらなくていいと、子供だった夫は教えられて、今でも信じている。それでいいと彼女も思っている。もしかしたら、本当にあるのかもしれないと夢見ていられるから。
「うん、せめて、俺の服にアイロンかけられるようになっといてくれよ。料理はもう無理しなくてもいいからさあ。」
妻はアイロンかけが苦手だ。やったことがなかったから、結婚して難儀した。かたや、夫は家事一般に長けていて、なんでも器用にこなしてしまう。それを指摘されて、またポカポカと叩いた。
「だって・・・真理子のアイロンはひどいよ。あんなもの、難しいこともないだろうにさあ。ものすごく難しいことは出来るくせにおかしいよなあ。」
「・・・あのね、みやくん。私は今までキャリアウーマンだったから家事なんてしたこともなかったの。だいたい、あなたが悪いのよ。なんでも器用にこなしちゃうから、私が下手クソに見えるだけよ。」
「仕方ないだろう。俺はずっと屋敷にいたんだもん。屋敷ですることなんて、おとうさんかおかあさんの手伝いぐらいなんだから出来るようになっちゃうよ。」
なんだかなあ・・・・と妻は笑っている。これでお別れだというのに、こんな日常の喧嘩を繰り広げているのが楽しい。いつもと同じように出かける。それでいいのだ。だから、妻も夫の耳元にこっそりと囁いてみる。
「ねぇ、ニューヨークで浮気しないでね。」
その言葉に夫は爆笑している。ひとしきり笑って、「どっちと? キャス? DG?」 と返事した。夫の元の恋人がニューヨークには住んでいて、どちらも夫のスタッフとして一緒に仕事するのだ。どちらも真理子と結婚することが決まって別れただけで、嫌いになったわけじゃない。
「どっちも駄目。みやくんはあたしのものになったんだから、他の人とは駄目なの。ふたりっきりになるのも駄目。デートも駄目。キスなんて絶対に駄目。」
「あのさあ・・・アメリカの挨拶はキスするもんなんだけど・・・・」
妻が駄駄っこのようなことを口にするのを呆れたように夫は見ている。キャスと逢うのはカウセリングを受けるから、必然的にふたりになる。DGだって仕事で打ち合せの場合は城戸がいなければ、ふたりっきりだ。まあ、今回は仕事もカウセリングもないから、どちらとも逢う予定はない。
「絶対に駄目。・・・・みやくんはあたし以外の人とキスなんてしたら暴れるからね。」
暴れられてもなあ・・・と夫はおかしそうに妻を眺めていた。独占欲が強く、プライドの高い妻は結婚してから、ずっとこんな調子だ。この妻が自分を待ち望んで黙っていたというのが、どれくらい忍耐が必要だったか、改めて感心する。
「心配しなくてもDGもキャスも逢う予定はないよ。どうせ、すぐにじいちゃんの別荘に移るから、ニューヨークに滞在するのは二、三日のことだ。逢いたくても暇がない。」
「逢わなくていいの。・・・・わざわざ不審な行動を取らないの。」
作品名:りんみや 陸風の美愛 作家名:篠義