りんみや 陸風の美愛
そう言われてみればそうだった。ニューヨークにいる時は、キャスの家に行かないときは城戸の部屋で眠っていたのが常だった。自分の腕のなかで大人しく眠っているユキを見て、いつになったら大人になるんだろうと呆れていたのだ。その娘が自分の腕のなかに居る。美愛は、すでにその頃のユキよりも体格は勝っていて背も高い。けれど、同じように自分に笑いかけている。この子をユキから預かったから、自分はユキが死んだことを認められたし、その悲しみからも解放された。子育てが忙しくて、ゆっくりとユキの死を悼む暇さえなかったのだ。わかった?と娘から念押しされて、「ああ」と頷いた。十年の間にすっかりひとつの家庭に出来上がっていたことがわかった。
「じゃあ、美愛が嫁に行くまでは、傍に居る。それからは、マリーとのんびりと暮らすよ、それでいいのかい?」
父親が離婚を撤回したのはよろしいが、自分が嫁にいくなどと宣うのは閉口だ。おいおい、と父親の肩を揺する。
「りっちゃん・・・りっちゃんは死ぬまで私の傍に居るのよ。私がこの家から離れることなんてないの。いい? 私は水野の次期当主だから、結婚するとしても相手が、ここに来て水野になるだけよ。リィーンとりっちゃんは放置すると、何をするか心配で、おちおち家を空けられるわけがないでしょう? ふたりとも、私がユキから委されているのだから・・・・」
「美愛、おまえはユキとは逢ってはいないのに、いつ頼まれたんだ? 」
美愛の父親は、彼女が産まれたときはアメリカにいて、それから間もなく、その地で他界している。当人は娘に逢うことは諦めていたようで、自分に頼んで去ったのだ。だから、彼女が逢うことは不可能だし、喩え逢ったとしても生後間もない赤ん坊だったはずだ。
「ユキと実際には逢ったことはないわ。だって、ユキは私が産まれて、すぐにあっちに移住しちゃったんだもん。でも、ママにたくさん言葉を記憶させておいてくれたの。私にメッセージを残してくれていたから・・・いろいろと頼まれているのよ。ユキは、りっちゃんとリィーンのことが一番心配だったから念入りにお願いされてるから・・・・ユキはねぇ、私のことはあんまり心配していないのですって、だから私にどうこうしろということはなかったのよ。私は私が思う通りに生きれば、それでいいそうだから・・・だから、好きにするの。」
自分はたぶん子供とは出会えそうにないから・・・それに、一緒に生きてやることもできそうにないので、と妻の心にたくさんの言葉を残していった。美愛が自分で意味がわかるようになるまで、繰り返し繰り返し母親は、それを見せてくれた。いつも、ごめんね、と始まるメッセージは、実にいろいろな事柄を娘に教えてくれた。自分の父親がどういう人間だったか、娘はその言葉で理解した。たくさんの言葉は、周りに居る人間への感謝のものがほとんどだった。自分は大切に守ってもらったのに、何も返せないままに消えてしまう。だから、娘であるおまえに頼んで逝くね、とユキは微笑んで美愛を見ている。彼女が考えるに、ユキの人生はけっして恵まれたものとは言えなかった。身体が弱くて、ほとんどどこにも行くことができない。友達やスタッフでさえ、ユキの祖父が与えてくれたものばかりだ。それでもユキは、その環境で幸せで恵まれていてね、と満足していた。きっと、美愛は健康なのだろうから自分ができなかったようなことを存分にやるといい、と奨める。たくさんの出会いや経験をして、なんでも自分で掴み取ってご覧と誘う。ただし、リィーンとりっちゃんが自分が消えることで心に大きな空洞を創ってしまうから、それだけは埋めてやってほしいと頼む。美愛が傍に居れば、ふたりは大きな空洞を美愛によって埋めていけるだろうから、必ず傍に居てやってほしいと再三にわたって頼まれた。だから、美愛は最初から城戸をりっちゃんと呼んで離さなかったのだ。父親から依頼されたことだけは忠実に守るつもりだ。その話をして、美愛は少し眼を潤ませた。
「りっちゃんが俺にばかり構っていて、もし、俺がこのまま死んだら、りっちゃんはまた一人になっちゃうよ。・・・そんなことになったら、静かに眠れないよおう・・・」
そう言って、ユキは自分を城戸の心から切り捨ててくれと頼んだ。結局、最後までそのことが気掛かりになっていたのだ。
「・・・ユキは最後まで、そんなこと心配していたのか・・・バカだなあ、他にもあっただろうに・・・・それはご苦労だったね、美愛。もう、大丈夫だから、私のことは心配しなくてもいいよ。」
「ううん、私はユキのお願いは全部聞いてあげるの。だから、りっちゃんもリィーンも傍から離さない。私がふたりを見送って、ユキのところに届けてあげるから・・・それまではずっと一緒に居るのよ。ユキが返したがっていた分は代わりに私が返すから・・・さあ、りっちゃん、ママに謝りにいこう。一緒に謝ってあげるから・・・ママは部屋で泣いてたんだからね。」
娘が父親の手を取って立ち上がった。心優しかったユキ・・・大丈夫、私がちゃんとあなたの後を引き受けてあげる。あなたがやりたくて出来なかったことは全部、私がやってあげる。だから安心して待っているといい。そうしたら、ユキは喜んでくれるだろう。自分が向こうで出会ったら誉めてくれるだろう。それまでは、ユキに逢うことはないけど、私の周りにいる人間は、みな、ユキのことを覚えていてユキが自分を見守ってくれているように感じられる。だから淋しいとは感じない。いつか天上の花園で出会う日まで、随分と先になるだろう。父親というよりももうひとりの自分と表現したいような感じだ。儚くて消え入りそうなユキの微笑が美愛は大好きだ。抱き締めてもらうことも話し掛けられることもなかったのに、なぜだが、とても懐かしい。ごめんね、美愛・・・と語りかけてくれるユキよりも、自分は大人になった。今までは守ってくれていた人たちを、今度は自分が守る。そう、美愛は決めていた。
離れから出て、少し空を眺めた。よく晴れていて澄み切った青空だ。いい天気だから、三人でドライブしよう、と父親に提案すると、相手はにっこりと微笑んで頷いた。
「それじゃあ、マリーにさっさと前言撤回をしないとな。・・・・美愛、一緒に謝ってくれる気は、まだある?」
「ええ、あるわよ。・・・りっちゃんだけ行ったら喧嘩になっちゃうと思うから、ちゃんとフォローしてあげる。さあ、サクサクとこなしてドライブ、ドライブ。」
親子ふたりが急ぎ足で歩き出した。夫婦の部屋に入ると、母親はぼんやりと空を眺めていた。
これで、しばらくはお別れだと夫は淋しそうに微笑んだ。自分のお腹を優しく擦って、ごめんね、と呟いた。そこには生まれる前の美愛がいた。それから、自分にキスして、しばらく自分を眺めていた。今度、逢うのは向こうになるよ・・・と囁いて抱き締めてくれる。全部、承知で決めたことなのに、それでも悲しくて泣きたい気分だった。このまま、屋敷に閉じこめてしまえるなら・・・と、何度も考えた。そんなことをしたところで、夫が生きていられる時間など僅かに延びるだけなのに。
作品名:りんみや 陸風の美愛 作家名:篠義