わがまま
3.
押し開かれたドアの向こうから、黒いTシャツと黒のハーフパンツに素足という、まさに夏のいでたちの蓮が、ゆるっと笑った。
「いらっしゃい。待ってたよ」
「アイスを?」
各種を取り揃えた8個のアイスが詰まったビニール袋を押し付ける。
受け取った蓮はまずその重みに驚いて、袋を覗き込んでまた驚いた。
「何人家族よ、うち」
「買い置き用にどーぞ」
「お気を使って頂いて。いくら?」
「いらね。そんかわり、一個もらうから」
「一個と言わず」
「腹壊さない自信がないから遠慮する。あがっていい?」
これは立ち話で失礼、どーぞと促されて、灯里はやっと靴を脱ぐ。
「んで、こっちは晩飯の材料。水炊きにすっから」
「あー助かる!今うちなんにもなくて」
だと思った、と呟いて左手に持っていた袋も手渡した。
「なんか、ひさしぶりだなあ。ここ来んの」
「緊張する?」
「なんでだよ」
実際緊張していたから、図星をつかれてちょっと焦った。
長めの廊下をぺたぺたと歩いて、リビングへ向かう。
ついさっき電話で怒鳴ってしまった自分が、何ごともなかったかのように普通に家に招かれてるのが、今更なんとなく居心地が悪くなった。
(どうでもいいから、なんにも言わねんだろな…)
先を行く背中をみつめたら、また嫌な思考がじわじわ出てきて、少し憂鬱になる。
なんも考えずに来てしまったけれど、本当に良かったんだろうか。
これじゃなんにも変わらない。同じ事の繰り返しだ。
(俺って、そんなに頼りにならねーのかなあ)
「はい、どうぞ」
リビングへの扉を開けられた瞬間、ほんわああ大量の暖風が顔にあたった。
「あっつ!!」
なにこの部屋オカシイ、とすぐさま上着を脱いだ灯里に、蓮は「でもさっき灯里に言われてすぐに暖房切ったよ。これは残骸」と眉尻を下げた。
それでもなお文句を言いたげな灯里の視線をすいと避け、とりあえずまあまあ、と部屋に促した。
憮然としながらもそれに従い、勧められるままに大きいソファに腰掛けたら、氷を浮かべた麦茶が速やかに出てきた。
「うわ」
「なに、そのリアクション」
「客扱いだ」
「客ですよ。わざわざ来てもらってるんだから」
「ああ、うん。それ」
グラスを持ち上げる手を途中で止めて、灯里は蓮を見上げた。
「どうしだんだよ、急に?」
「ああ。珍しいって?」
「うん」
眉間にしわを寄せながら大きくうなずく灯里に、蓮は数秒停止した後、ファンを魅了してやまない王子な笑顔で、今さっきアイスをしまった冷凍庫を親指で差した。
「せっかく買ってきてもらった事だし、早速食べようか!」
「うん。食べるけど。古典的にも程があるけど」
話のそらし方が全然なってない。乗ってやる気も起きない。
「で?なんで?」
「えええええええと…」
蓮は非常に弱りきった顔でしばらく宙を見据えていた。
やがて、右の頬をひっかきながらぼそりと呟いた。
「最近全然一緒にいられないから、寂しいなって思ってて」
「…は?」
思いもよらなかった言葉が返ってきて、灯里は一瞬何を言われたのかわからなくて、呆けた。
それから、グラスをすべり落としそうになって、慌てて手のひらに力を込める。
そんな灯里に苦笑しながら、蓮は言葉をつなげた。
「せっかくオフだし、一緒にいれたらなって思ってたんだけど、でも灯里も都合あるかもだし、前約束もしてないし、だったら余計に俺が、様子を伺いに灯里ん家を訪ねるべきなんだけどね」
いつもと少し違う声音。
いつもと少し違う言葉。
…素直な?
「寂しいあまりの、わがままっていうか」
言って蓮は小さく笑った。
慣れない事を話しているために、恥ずかしいのまぎらわしている笑いだった。
そして、灯里の戸惑いの視線から逃れるようにキッチンへ入った蓮は、カップアイスと小さな銀のスプーンを二つづつ手にして戻り、テーブルにとん、と置いた。
それから、灯里の隣にゆっくり腰掛ける。
「灯里は、絶対、俺のお願いを聞いてくれるから」
色素の薄いさらりとした髪の隙間から覗く蓮の耳が、少し赤くなっていた。
「ちょっと甘えてみました」
「…………………」
(…うわーうわーうわー!!!)
思いもよらない反則技をくらって、目眩が起きた。
なに、こいつ。突然。
そんなのずるい。
そんなの今まで言った事ないくせに…!!!
頬が紅潮するのがわかった。
ずるい。ずるい。だって。
「は、はずかし…っ」
思わず顔を覆ったのは、灯里の方だった。
この男、すごく恥ずかしい。
「うわー、勇気だしたのに、俺」
灯里の頭をくしゃりとなでると、アイス溶けるよ、と笑った。
そして、バニラのカップのフタを開けてスプーンですくうと、灯里の口元へ持っていった。
「さあ、お食べなさい」
指のすきまから目前の甘味を確認して、おそるおそる口を開ける。
「よーしよしよし」
「…ウマイ。冬なのに」
「冬だからこそ美味い」
綺麗に微笑んで、蓮は手のそれらを灯里に渡し、今度は自分の分を手に取った。かき氷苺味。
フタを開けて、しゃくしゃくかきまぜる。
「あのね、灯里」
「うん」
「灯里が俺のこと心配してくれんの、本当にすごい嬉しいんだよ」
「…うん」
「けど、もうクセみたいなもんなんだ、俺の。大丈夫って言っちゃうの」
「……」
「大丈夫じゃないって思ったら、本当にもうどうにもならなくなるような気がするんだ。それがすごく怖い」
「怖い?」
「いつでも、自分の意志でなんとかなるようにしてたいんだ。誰かに道を閉ざされたり、自分で諦めてしまったり、そういうのすごく嫌なんだ。何が起きても、別にたいしたことじゃない、なんとかなる、って思ってないと不安になる」
静かな声で喋る蓮の横顔は、今まで見たことのないそれだった。
真面目に自分の考えを言葉にしている蓮を、ただ見つめた。
小さく息をついて、蓮は長めの前髪の隙間から、灯里をまっすぐに見る。
その瞳は、僅かに心細げな光を湛えて揺れていた。
「俺はね、灯里。これから先もずっとずっと、灯里と一緒に仕事をして行きたいし、ずっとずっと一緒にいたい。だから、こんなところでへばってちゃ駄目だと思ってる。正直、忙しすぎてちょっとしんどいかなって思う時も少しはあるよ。でも、俺達はまだまだこれからだって思うから。いい仕事を沢山したい。評価と実績が欲しいよ」
「評価…?」
「うん。そういうのを残していけば、いずれはもう少し自分達のペースで仕事をしていけると思うんだ。まだ先は長いけどね」
そう言って自嘲気味に笑う蓮に、灯里は呆然とした。
蓮がそんな先の事まで考えてるだなんて、想像もしていなかった。
毎日忙しくて、目の前のことを順番にこなすことに精一杯で、だから自分は、今しか見えてなかった。
『ずっと一緒に』
その思いを軸に、蓮は未来を見据えて頑張っていた。
そんなの、………知らなかった。
ショックと衝撃と嬉しさがごちゃまぜになった。
ゴメンとありがとうとそういうのは先に言っとけよがごちゃまぜになった。
(なんか…泣きそう)
こみ上げる衝動を喉の奥の方で堪えていると、蓮は、黙ったままの灯里に少しだけ不安そうに、それでもふんわりと笑って見せた。