りんみや 陸風5
庭に目をやると娘が子犬のように走り回っている。その背後からひょろりと背の高い男が穏やかな顔で付き従っている。少し顔色がよくなったかなと思う。自分の両親が、この間から、あの男と正式に結婚してはどうか、などと言い始めた。孫のために父親として迎えろということらしい。年令的には五歳違い、そして子供が懐いている。いい条件だと両親は奨めた。それでは私の気持ちはどうなるの、と尋ねたかったのを我慢した。自分は最愛の人間と結婚して子供まで設けた。その夫が急逝して五年である。まだ気分的に拭えない喪失感がある。ぽっかりと胸に開いてしまったものは埋められない。それなのに、再婚しろなどと言われるのは嫌だった。それに、この縁組だけは絶対に嫌だ。これは亡き夫が奨めた縁組でもあるからだ。最後の頼みごとで、別に叶えなくてもよいとは言われた。自分も絶対に叶えたくないものだった。最後まで夫はひとりでいい。そう思っていた。両親が揃っていることの大切さは身を持って知っている。だからこその頼みごとだった。酷いことを言っていると、あの時は夫に食って掛かった。確かにそう思っていた。それなのに、叶えてもいいと思っている自分がいる。愛しているからなどという陳腐な理由ではない。そんなものは最初からない。娘があまりに幸せそうで、自分が取り残されているような錯覚に陥ったからだ。あの幸せそうな空間は娘と男だけで作られている。本来なら、夫と自分が作るべき空間を、娘は男と作り出している。つまり、自分は必要ないと拒絶されている気がした。そこに自分も入りたいと切実に思った。あれは夫と作りたいと思ったものだ。それが理由。自分にはそれだけで求婚するに相応しい理由だ。
「リッキー、少しいいかしら?」
男が木陰の芝生に座っているので、それを訪ねた。もちろん娘もそこにいる。どんな僅かの時間でも勝手に引き剥がすな、と父親から命じられている。だから眠るように暗示した。コクンと娘は男の膝で眠りに落ちた。驚いて、男は自分を見上げている。
「少し話したいことがあるの。美愛には聞かせたくないから眠らせただけよ。いいかしら? 」
「ああ、どうぞ・・・申し訳ないとは思ってる。返さないといけないとはわかっているんだが、美愛が納得してくれない。ちょっと強めに叱ってみるよ。」
城戸は真理子が娘を返せと陳情にきたのだと思っていた。毎日、母親の許へ戻るように説得しているのだが、それだけは聞き入れない。普通に考えても異常だとわかる。このくらいの子供が親元を離れて、他人と起居するというのはおかしい。それなのに、誰も文句がない。そろそろかと城戸も思ってはいた。
「いいえ、そのことではないの。美愛の好きにさせているだけよ。別に無理に引き剥がすこともないでしょ? そうじゃないの、リッキー・・・私が話したいことは別。」
「他のこと? なんだろう?」
「・・・あの・・・申し上げにくいのだけどね、私は再婚になってしまうので、初婚になるあなたには・・・あまり良い話ではないのだけど・・・」
「はあ?」
「・・・その・・・美愛の父親になってほしいの。」
「ああ、そのつもりだよ。なにせ、美愛の教育係というのをクッキーから拝命しているのだから、父親代わりは当たり前のことだ。」
「いえ、そうじゃなくて・・・正式に籍を入れてほしいの・・・」
「籍? 住所地の変更のこと? それはもうやられてるんじゃないかなあ・・・葛に尋ねておくよ。」
相手は結婚など眼中にない。遠回しに求婚しても理解とは程遠いことを口にする。誰がリッキーの住民票のことなんて頼んだりするものか。
「違うわ、もう、リッキー・・・私と結婚して正式に水野の籍に入って、美愛の正式な父親になってちょうだいってお願いしているの。」
短気な真理子が一気に捲くしたてると、城戸は呆然とした顔をして固まった。面識程度にしか知らない相手から、いきなり、それも女性で、ゆきの妻から、求婚されているという事実が理解不能だ。
「ちょっと、待って、マリー・・・なんだか、錯乱していないか? 少し落ち着いて。きみはゆきの奥さんだ。・・・まあ、再婚するなとは言わないけど・・・相手を間違えていないかい? 」
「他に誰に、こんなこと言うわけ? 」
「・・・それは・・・わからないけど・・・とにかく、少し頭を冷やしたほうがいい。子供は返すから、落ち着いて。」
だっこしている子供を母親に手渡そうとすると、相手は避けた。立ち上がって、城戸に人差し指をつきつける。
「私が結婚してくれと言う相手は城戸と言って、みやくんの一番のお気にいりのスタッフで、死ぬまでずっと添い寝してもらっていた相手よ。あなた以外では誰だというの?」
「・・・なんで、そんなことを? マリー、酔っ払ってるのか?」
「あなたなら、美愛は懐くわ。この子には両親が必要で、あなたは父親代わりを勤めてくれるというのなら、こうするのが一番だわ。」
「待ってくれ、何も正式に結婚する必要はない。そんなことをしたら、きみの戸籍上の夫は変わってしまうんだぞ。それこそ、きみは嫌なはずだ。」
そう、それが一番嫌で仕方なかった。一番大切な最愛の人が元夫になる。自分が愛していた証が消えるようで嫌なのは事実だ。
「それでは駄目なの。親子三人が一緒というのが基本でしょ? 今のままでは、あなたのところで美愛は眠って、母親の存在が消えている。三人が一緒に眠るようにしたいの。私もみやくんも生んでくれた両親を知らないわ。だからこそ、両親が揃っていることの大切さは身に染みているの。代わりでは駄目なの。父親が必要なのよ、リッキー。」
自分も夫も佐伯と水野の両親に出会って、一緒に眠るのが、どれほど幸せなことなのかわかった。安心できる空間というものが、どれほど精神的に拠り所になるのかも理解した。だからこその結婚だ。ふたりの空間では駄目だ。そこには母親がいない。三人の空間が必要だ。
「えーっと、それなら・・・佐伯さんたちのところで・・・」
「祖父母は駄目よ。違うの。」
「・・・迷惑なら・・・出て行くよ。・・・悪かった、母親から子供を引き離しているのは間違いだってことはわかっている。」
「そうじゃないの、美愛の父親になってほしいの。それは駄目ってことなの? 」
駄目かと言われたら駄目なことはない。もともと、その大役は仰せ遣っていることだ。ただ、理解できないのは結婚して水野の籍に入るということだ。ほとんど互いに知りもしない相手と結婚するというのが理解できない。
「・・・駄目ということはない・・・ただ、そこまでするメリットってなんだい? きみにはメリットなどないだろう。」
「メリットは美愛が両親を正式に持てるということよ。私を大切にしてくれなんて頼まないし、私もあなたを愛したりできないと思う。ただ、美愛を通して母親としての私を受け入れてほしいの。逆に父親としてのあなたを私は必要とするの。そういう関係は許されないことかしら?・・・・私、今でもみやくんが一番大切で愛してるわ。その気持ちは変わらない。でも、美愛には現実に父親が必要だし、夢みたいにみやくんのことばかり話していてはいけないと思うの。」