千分の一ミリ
肆
「いつから下の名前で呼ぶようになったんだっけ?」
翌日、何事もなく俺の前に姿を現した侑宇の不意の問いかけに、俺は一瞬詰まってしまった。
俺は侑宇と初めて下校したあの日、家に帰るとすぐに持ち帰った卒業アルバムを広げた。
自分のクラスではなく6年2組のページを開き、床にべたりと置いた。あ、・・・か、き、く、と順を追って前からなぞっていくとすぐに呉侑宇を見つけた。記憶を呼び起こし「くれゆう」と自己紹介していた奴の声を思い出す。そう、ゆうだ!と自分でも思いがけない大きな声を上げる。ゆ・う。字をなぞりながら名前を読み上げる。ゆう、か。侑宇。次第に胸が膨らむ。
「エイチくん」とたどたどしく言った奴の声と口の形を思い出す。もそもそと喋る印象だった奴の口が「い」の形を取ったのが何故か無性に可愛かった。
そうだ。俺は自分の名前を呼んで欲しくて、中学の入学式で見かけた奴を「侑宇」と呼んでみたのだった。最初は驚いていた侑宇の顔は徐々に落ち着きを取り戻したが、返って来た言葉に俺はがっくりとする。
「呰見くん、おはよう」
侑宇は突然下の名で呼ばれた事について特に気にしている様子は無かった。先月末、初めて言葉を交わしたはずの俺に対しての警戒心はいかほどのものか。俺が黙り込んでしまうと侑宇は不思議そうに首をかしげる。俺は特に用もなかった事を思い出し視線を逸らした。その先にクラス割が貼り出されていた。
「ぁ、俺達同じクラス」
そう呟いた俺の言葉を受けて、侑宇も視線を上げた。しばらくしても探し出せなかったのか「ぇ、何組?」と恥ずかしそうに眉を下げた。
その姿がとても愛しく、俺は初めて侑宇に笑顔を向けた。
3組だよ。
男女混合で振られた出席番号で、俺は毎度のことながら1番だった。自動的に教室の奥の一番前の席に配置される。慣れた場所だ。偶然にも萱嶋という女子から折り返しで前列に来た侑宇と、俺は隣り合わせになった。俺は内心とても嬉しかったがそれを悟られまいとそっけないほどに「よ、お隣さん」と軽く手を挙げた。侑宇の方はそんな事知る由もなく「すごい。偶然って続くな」と少し感心したような眼で言った。
「・・・いつも1番?」
「ああ」
「そっか」
俺はこの時、ああこいつは人と話すのが苦手なのか、とようやく気付いた。
話しながら再び昨日と同じ研究室へと移動した。
そこには昨日同様他に学生の姿はなく、窓の外には密接した2号館の壁がある。
よって殆ど陽の光が入らないこの場所は他の学生からはあまり好まれておらず、真冬の今は特に人気がない場所だった。薄暗く、はっきりいって辛気臭い部屋。つまるところ、侑宇の好きな環境なのだ。
侑宇はまた昨日と同じ場所に陣を張り、俺は昨日腰かけたボロ椅子を通り過ぎ、侑宇が座っている長椅子の端にストンと腰かけた。侑宇はそれについて特に何も言わず、持参した本を開いてカチカチとシャーペンを鳴らした。