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千分の一ミリ

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「いつからというか、まぁ大体最初からだろ」
また偉く時間を置いてそう答えた呰見はどこか居心地が悪そうに首の後ろを撫でた。
「え?」
あまりにも時間が立っていたせいか、僕は少し間の抜けた声を出してしまった。
苦笑いを浮かべた呰見が「名前」と笑み交じりに答える。
言われてすぐ、間欠泉の如くワッと吹き出した記憶に頭がぐらりと揺れた。
再び集中力を奪われ、僕はシャーペンをレポート用紙の上に転がした。


呰見も変わった名字ではあったものの、呉という名字も変わり種である。
人名としてもどこか中途半端なので、僕は自分の名字が好きじゃなかった。
呉と名乗るのも、呉と呼ばれる事も。
なので呰見が僕を下の名で呼んだ時は最初驚いたけれど嬉しかった。
何故、という気持ちもあったがそれを訊いてしまったらまた名字で呼ばれてしまうかもしれないと思った。
ので黙っていたのだ。そうだ、そんな事があった。
ただ単に呉という名字を嫌っていたから、名前で呼ばれた事が嬉しかった。と、当時は思っていた。僕に人並みな人間付き合いをするほどの世渡り術などあるはずもなく、ましてや親友などと呼べる人間も居なかった。その言葉自体むず痒かった。だから名前で呼ばれる事への喜びが、相手との距離が近づいた事に対する喜びとうまく結びつかず、なんだかあやふやに並列されたまま過ぎ去ってしまったのだ。
誰かを身近に感じる事を、嬉しいと思った事などなかった。むしろそれを忌み嫌っていた。
それはそもそも、誰かをここまで身近に感じた事がなかったから、自分にはそんな相手が一生現れないだろうと思っていたから、要するに妬みなのだ。世に対する。自分以外の誰かに対する。
本当はすごく欲しかった?あんな小さくて冷たい泉の中に閉じ込めてやりたいと思うほどに。
底でうずくまった呰見・・・。そう、あれはもう呰見に他ならない。呰見とよく似たヒトのようなものではなく、あれは間違いなく僕の中の呰見だった。
誰からも気さくに話しかけられる人付きのする呰見英知は、実のところ特別親しい人間というのが居なかった。
強いて言えば、僕がそれだったのかもしれない。どこか相手と一線を引く癖があるのは見ていて分かった。それに気付いたのは小学生の頃だ。なので自分と似ているのかもしれないと、密かな親近感は抱いていた。そして中学に入りクラスを同じくして机を並べるようになってからというもの、呰見はやたらと俺に構った。元々面倒見が良かったので、いつも独りで居る僕をやたらと気に掛けてくれた。
僕は呰見に世話を焼かれる度に、初めて言葉を交わしたあの日の呰見を思い出していた。
まるで雛を見守る親鳥。そう、あの眼に宿ったもの・・・あれは慈愛だ。何でもいい。とにかく愛なのだ。


「英知」
苦く微笑んでいた呰見の顔は、みるみるうちに今までに見せた事のない表情になった。
まるで隙など見せなかった呰見が、顔を真っ赤にしてうろたえている。
「・・・なに?」
平静を装い切れていない様子でようやく返事をした。
「雛はもうとっくに巣立ったようだよ」
僕の意味不明な発言に、呰見はさらにうろたえた。いつもの呰見ならば恐らく「もうじき南に渡るのか」などと言っておどけてみせるに違いないのに。
「呰見はどちらかというと格好いいのに、英知は可愛い奴だね」
相手が余裕を失えば失うほど、僕には余裕が生まれる。無意識に笑顔を浮かべてしまう。
僕の発言に言葉を失った呰見はとうとう巻いていたマフラーで顔を隠すようにしてそっぽを向いてしまった。
「屈辱?」
さらに意地悪な気持ちが芽生えそう尋ねる。
赤い耳だけを覗かせた呰見は黙ったままだ。
「ねえ、この後暇なら・・・僕と死ぬまで一緒に居よう」
赤い耳元に口唇を寄せ、甘えるような声で言ってみる。
昔からなんだかんだで呰見は僕に甘かった。僕は甘え下手だと思っていたが、どれだけ呰見に甘やかされて生きて来たかを今知ってしまった。
「安っぽいナンパみたいな前振りでものすげぇ事言うなバカ」
覆われた口からようやく吐きだされた呰見の声は、消えてしまいそうなほどか細い。
僕は目元まで引き上げられた呰見のマフラーをそっと指で下ろすと、露わになった頬をトントンと指で小突いた。思惑通り、まだ赤い顔をしてうろたえた呰見が僕を見た。
「なんていうかさ、呰見は僕にとって、そこに置いておきたい理想なんだと思う」
「・・・そこってどこだ?」
「そこは、ここだな」
ポンと自分と呰見の間に出来ていた隙間を軽く叩いてやる。それも出来るだけ自分に近い位置を。
一瞬驚いた呰見はくしゃりと眉間に皺を寄せた。
「窮屈だろ」
不満を垂れるように漏らした呰見はどこか照れているように見えなくもない。
「お互い距離を測りすぎて、ものさしが精巧になってしまったんだね」
僕は皮肉を込めて笑った。それを受けて、呰見も、笑った。
そして「お前は随分饒舌になったよ」と僕の頭を撫ぜたかと思うとその手を頬へと滑らせ口唇を僕のそれへと寄せて押し当てた。初めて触れ合った口唇はお互いとても冷えていた。見れば呰見のそれは少し色が悪い。ふと、湖底でうずくまる呰見の夢を思い出した。
「・・・湖の底に引きずり込んでくれていいよ」
僕は頭で考えるより先にそう云った。
そしてその口唇を暖めるようにして己の口唇でかぷりと覆う。
中で一瞬躊躇った呰見の舌がゆらりとこちらへ渡ってくる。
もしかして君の舌も、あんなに赤いのだろうか?
瞬く間に熱を帯びた口唇は、僕の想像を上回るほどに色を変えていた。
「・・・何も変じゃない?」
僕は恐る恐る訊いてみた。ただそれだけで全てを察したように呰見が距離を縮めて座り直す。
「侑宇は?」
少し赤みの引いた顔で真っ直ぐ見つめられて今度はこちらが戸惑ってしまう。
「僕、いつの間に呰見の身長抜かしたんだ?」
「ちょっとそのメガネ外してくれよ」
まるで噛み合わない事を言い合いながら、僕は言われるままメガネを外してその腕をそのまま呰見の首の後ろへ回した。そして見上げるように喉を反らした呰見を受け入れ、2人いつまでも口唇を赤く染め続けた。
山頂の暗く冷たい泉にも劣らない、僕の愛する陰湿な研究室の隅で。


作品名:千分の一ミリ 作家名:映児