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千分の一ミリ

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底に居るヒトのようなものに触れたんだ。
もちろん、夢の話だよ。

夢の中で僕は、暗い山道をひたすら進んでいた。
人の手が入っていない険しいケモノ道を、足を引きずるように歩く。僕が目指していたのは山頂だった。ただひたすら上へ上へ、あの月の光が差す頂へ。
息も切れ切れに辿りついたそこには、蒼白く輝く小さな湖・・・いや、あれはもう泉と呼ぶ方がなんとなく相応しい気がした。その澄んだ泉を覗きこんだ先に見えたもの。それが呰見と良く似たヒトのようなものだった。
指先を合わせ、それの微笑みにどきりと心臓が跳ね、僕を呼ぶ声は頭に痺れを及ばせる。

「呉」

大学生の姿であるその声は、小学生の呰見の声だった。変声しきっていないどこか幼い中低音。僕の遠い記憶を鮮やかに蘇らせるには十分な甘美さ。水の中独特の鈍い響きを纏わりつかせ、何度も何度も頭の中をその声が通り抜ける。
初めて声を掛けられたあの日。僕は1人教室に残って居た。クラスメイトも担任も、他のクラスの人間もみんなとうに帰ってしまっただろうと思っていた。そんな時背中の方から投げかけられた声は、どこか怯えを滲ませていた。この声は誰の声だろう。クラスメイトの声ではない。しかし声の幼さからして恐らく同年代の少年の声なのは確かだ。そんな事を考えていると、背後で微かに身じろぎをする気配がした。黙っていればまた呼んでくれる。そう思ったが、僕は衝動を抑えきれずゆっくりと声のした方へ振り向いた。
そこにいたのは4年の終わり、ほんの短い間だけ同じクラスだった呰見英知だった。
何故、彼が僕に声を掛けるのだろう、とその理由ばかり考えていた。
「中学・・・お前も小海中だろ?」とまた突然の問いかけの理由を考えた。呰見が僕と同じ中学だからといって何がどうなるわけでもないのに。呰見は僕が頷いたのを見てまた問いかけた。「帰らないのか?」と。
謎だらけだ。何故呰見が僕の事など気にするのだろう。何故、どうして、何の為に。しばらく考えても及ばず、僕はようやく「かえる」と返した。呰見は次の瞬間明らかに嬉しそうな顔をした。
何故、どうして、何の為に?
「俺の事覚えてる?」「下の名前はなんでしょう」生き生きとした呰見の声に律義に応えていく僕。覚えているもなにも、呰見は何処に居てもひと際楽しそうでとても目立った。クラスが離れてからも良く目にしたが、それは決して卓越したものがあったというわけではなかった。ただ単に、僕の琴線に触れる何かがあった。なので、僕は呰見の事をよく見ていた。覚えている以前の問題だ。僕の答えに呰見はますます楽しそうになった。そして後ろのドアに立っていた呰見は廊下から前の教壇側のドアへと移動し再び教室を覗きこんだ。僕を待つようにしてその場に立ち止まる。僕は自然と机の横に掛かっていたカバンを取り上げ、肩からそれを丁寧に掛けると前のドアへ向かっていった。徐々に近づく呰見の姿が鮮明に僕の眼に映る。まるで雛を見守る親鳥のような眼だな、と僕は思った。それから僕らは肩を並べて帰路へと着いた。意外にも近所に住んでいた事を知ったのはこの時だった。



作品名:千分の一ミリ 作家名:映児