千分の一ミリ
弐
呉侑宇(くれゆう)。
情けない名前。そんな第一印象だった。
侑宇と出会ったのは小4の秋だった。俺の通っていた学校へ、侑宇が転校してきた。
呉侑宇です、と自己紹介する奴はなんだかとても暗い人間に見えた。事実、根暗だった。
自分は特別明るいでも目立つでもなくごく普通の生徒だったと思う。
すぐ5年に進級しクラスは離れ、卒業までは奴と口をきく事はなかった。
それが卒業式のあの日、ホームルームを終えて各々散り出したあの哀愁漂う穏やかな放課後だ。
通りかかった6年2組の教室に、侑宇だけがひとり自分の席らしい場所に座っていた。
侑宇背筋をピンと伸ばし、まっすぐに黒板を見つめていた。はっきりそう確信したわけではない。とにかく侑宇はただ前を見つめていたのだ。その姿が俺の目には何故か衝撃的に映り、気づいた時には声を発していた。
「呉」
そう呼んだのは初めてだった。
奴はまるで微動だにせずにまだまっすぐ前を見つめていた。聞こえなかったのかと思いもう一度浅く息を吸い込んだ瞬間、ゆっくりとこちらへ振り返った。その瞳は、少し離れたいたのとメガネに隠されていたせいではっきり見て取れなかったけれど、今は恐らく俺を見ていた。
「中学・・・お前も小海中だろ?」
そう問いかけると、無言のままコクリと頭を揺らした。
「帰らないのか?」
しばらくの沈黙をまたぎ、「かえる」とやや掠れた声が返ってきた。
その声を聞いた俺はなんだか無性に嬉しくなり、「俺の事覚えてる?」とすがるような気持ちで問いかけた。再びコクリと頭が揺れる。
「呰見くん」
丁寧に、正しく発音された自分の名が、なんだかとても神聖なもののように感じられた。
何故か少し意地の悪い事をしてやりたくなって続けて聞いた。
「下の名前はなんでしょう」
流石に覚えていないだろうと踏んでいた。俺はといえば、この時奴の下の名前など半ば忘れかけていた。
「エイチくん」
少し舌っ足らずな声に、妙にドキリとしたのを覚えている。
まさか覚えていたなんてという驚きと、覚えられていた事を嬉しく思っていた自分に対する驚きと、ほか色々だ。その、ほか色々の部分はもうなんだったのか覚えていない。
その後、どちらが誘うでもなく肩を並べて帰った。東の空はもう橙から紫へ移り変わっていた。
その後は何の因果か中学3年間同じクラス。高校も同じでずっと同じクラス。流石に部活は別々だったが、侑宇との付き合いは途切れた事はない。そして大学3年になった今に至るまで、付かず離れずの素晴らしい距離を保ちながら付き合っていた。そしてそれまで平凡だったある日の午後、侑宇の言葉。
「底に居る、ヒトのようなものに触れたんだ」
元々ある種の奇言奇行が目立つ奴ではあった。そうは云っても俺から見ればそんなにひどいものではない。人と違う。それだけの事だ。それを周りは奇言あるいは奇行と定義する。俺の中でいうそれはもっと別の次元のものをさしたが、今はあえてそう表現しておくことにする。
長年の付き合いの中で、突然の突拍子もない発言には免疫が出来ていた。そこまで驚かない。だから冷静に言葉も返せる。
指先が触れた、と説明する侑宇の眼は何故か少し切なそうで、思わず真似事で触れてみた指を絡めた。
俺が見逃すはずのない侑宇の動揺。それを目の当たりにして思わず笑みが零れる。
そうだ、俺はお前のそういう顔が好きだ。そういう顔を見るのが好きだ。
お前の化けの皮を剥がすのが好きなんだよ。
呉侑宇。お前、幻覚でも見たのか?
呼び止めるのに失敗した俺は仕方なく椅子の背もたれに体を戻し、苦しそうな悲鳴を上げる年季の入った事務椅子を更に痛めつけるように体を反らした。
侑宇の手に触れたのは、思えば初めてだった。