Remember
結果的に大学には合格したけれど通いたいとは思えず、多紀は高校が自由登校の期間に入ると、毎日の様に画廊に足を向けた。
絵に触れたいという衝動を素直に出せる場所。好きなものを、純粋に好きだと思えるあの場所では、自然と息が出来る気がして。
あの日、これと同じパンフレットをくれた相手を、多紀は思い出す。
もっと素直になったらいいと、手を差し伸べてくれたのは、多紀が見惚れた絵を手掛けた相手だ。
自分の心が激しく揺さぶられる絵に出会い、展示会の最終日にその絵を描いた本人からパンフレットを受け取りアドバイスを受けた時、もっともっと貪欲になりなさいと話してくれた。
きっと絵に対してだろう。
行きたくなかったとしても、きっと四月になったら大学に通っている筈だ。
熱情が赴くままに筆を執るという勇気が、多紀は出せないでいた。
これ以上、両親……特に母には悲しい思いをして欲しくない。
「でも、諦めてないんでしょ。これが多紀の気持ちを表してると思うんだけどな」
真帆はよしよしと、多紀の頭を撫でる。
現実に引き戻されるのと同時に、姉にもすごく迷惑を掛けているのを自覚する。
「ごめんね、真帆ちゃん。いきなり転がり込んでるし、今もこうやって付き合わせてるし……」
「何言ってるの。気にしない気にしない。それに、私が遅くなるといつもご飯作ってくれるじゃない。助かってるのよ。あ、でもそれだけじゃないからねっ。多紀は居てくれるだけでいいんだから」
ギスギスしていた義父と多紀に、母も内心気が気じゃなく、卒業して家にいる時は息が詰まりそうだった。そんな時、ここに引っ越したらいいと真帆は微笑みながら、多紀に場所を作ってくれた。
学費以外の援助はしないと義父から突きつけられてから、ビストロのアルバイトを見つけ、大学に入ってから信尋に出会い、今の状態は決して悪いだけじゃないと思えてくる。
多紀は時間があるとスケッチブックを持って、興味の惹かれたものを模写したり、信尋のバイトを通じて知り合った杜陸也の好意で、陸也の知り合いのアトリエだという場所でキャンバスに絵を描く事が出来た。
「本当に、ありがとうね。でも、やっぱり迷惑はかけられないよ」
真帆は構わないと言ってくれるが、就職して早々一人暮らしを始めたのは、やっぱり自分の時間が欲しいというのがあるのだろう。それに、最近は誰か好きな人がいるのかもしれないと、多紀は自分とどことなく似た瞳の色をそっと見つめる。
最近、纏っている雰囲気が柔らかい。
多紀の場合は、それを色として捉えていて、明朗な姉は普段オレンジが濃いけれど、今はそれがほんのりと柔らかさを帯びていた。
人にはうまく伝わらないこの感覚を口にしても、笑ったりからかったりしないのは信尋だけだと、気がつけば友人の事を考えている自分に、多紀は思わず首をふるふると横に振る。
「どうしたの?」
「え、あ、うん。なんでもないよ。明日も早いし、寝るね」
「そうね。それじゃ、おやすみ」
真帆が自分の部屋に戻ると、しんとした静寂が訪れる。
多紀はぽすんと横になり、火照った頬をソファーに押し当てた。とくりと鼓動が少し早いのは……どうしてだろう。
着実に、彼に対して心の領域が広がってきている。
(……なんだろ、これ)
さりげないのに、強引。正反対だけど、それが多紀に対する信尋の接し方だ。
持っていたパンフレットを抱きしめながら、多紀は胸がじわりと熱くなっていくのを自覚する。けれど、そこから生まれる感情がなんなのかは分からない。
ゆっくりと目を閉じながら、多紀は信尋の名前を小さく呟く。
「……なんなんだろうね」
今ここに彼がいたら、この気持ちに答えをくれるだろうか。
そんな事を思いながら、多紀はもう一度、彼の名前を唇に溶かしていった。
「なあ、引っ越したいんだって?」
前期の試験も終わり、夏休みに入ってから数日。今日はバイトも入っていないので、大学の図書館でレポートの資料を借りるついでに、物件を探そうと不動産のホームページをコンピューター室で調べていると、どこから聞きつけたのか信尋が姿を見せた。
「誰から聞いたの?」
「広瀬さんから。彼女、ちょっと落ち込んでたぞ」
教室の外に備え付けてある休憩スペースに連れられ、椅子に座った多紀に、信尋がアイスココアの入ったカップを手渡す。
「真帆ちゃんが?」
「一緒にいるの、窮屈なのかなって」
「そんな事ないよ。むしろ居心地が良すぎて困るくらいなんだけどね。……でも、それに甘え過ぎてちゃいけないなって」
姉には姉のプライベートもある。いつまでも身を置いてしまうと、何かと迷惑を掛けてしまいそうで申し訳なさが募ってしまう。
カップを持ってじっとしている多紀の隣に、信尋も腰を下ろす。
「まだ、どんな所にするか、具体的に決めてないよな?」
「あ、うん。大学とバイト先の距離もあるし、何よりも引っ越しするお金がなかなか貯まらないから」
学費は援助してもらっているけれど、他は一切仕送りはされていない。毎月のアルバイト代の中から、姉に生活費を渡したり、日常の細々としたものの出費を除くと、残るのはほんの少しだ。
姉の好意を受けつつ、もう少しあそこに居て……と思い直そうとするけれど、この間も感じた真帆の微妙な変化が気になってしまう。
「だったら、俺の所に来る?」
「……え?」
申し出に少し驚き、信尋の顔をまじまじと見つめてしまうと、微苦笑を浮かべながら、考えて欲しいと続けられた。
「……なんで?」
「なんでって……まあ、なんとく一緒に住んでもいいかなって」
きょとんとすると、信尋がまた微苦笑する。
知らない相手を、どうして簡単に自分の領域に入れてしまえるのだろう。
多紀は肉親でもなく、昔からの友人でもない。
「知りたいって思ったんだ。初めて会った時。……違う。初めて多紀を認識した時からな」
「四月のあの時?」
信尋は小さく笑みながら、首を軽く横に振った。
視線が多紀から外される。
「今年に入って少ししてから。画廊に通い詰めてただろ」
「え、うん」
その頃はまだ知り合っていない。
「まあ、覚えてなくて当たり前だよな。制服を着てる奴なんてどれも同じ顔に見えるし」
信尋は、手に持っていたカップを多紀の目の前に差し出す。
「カフェラテです」
「え?」
信尋が更に続ける。
「ミルク多めですね。少々お待ちください。……このやり取りしているうちに、お前の好み覚えたよ」
どこか楽しそうな口調に、彼がどこで働いていたのかようやく思い当たった。
「画廊の前の、あのお店の人?」
多紀が画廊の帰りに、よく寄っていた店。
チェーン展開をしているコーヒーショップは、高校生だった多紀でも気軽に入れる所であり、密かにお気に入りの場所になっていた。
「そうそう。気づかないなーとは思ってたけど。多紀があそこに行く時間と、俺のシフトがよく被っていて、レジからちょうど入り口が見えるんだよ」
「そうなんだ」
ちょっとした偶然。