Remember
「あの、ぼくは一つで……」
「そうか? じゃあ遠慮なく」
残りの一切れを取ろうとした直野の手を、雨宮がぴしゃりと叩く。
「まったく。どうして自分からそうやって、怒らせる原因を作るんだよ。最近はなにもないと思ったのに」
「もしかして、痴話喧嘩とかですか?」
「そうそう……それがさー……って。え?」
多紀の問いかけに、二人が同時にこちらを向く。次に驚いたのは多紀自身だった。もしかして間違っていたんだろうか。
「あの、違うんですか?」
「いや、あのね。……痴話喧嘩って意味知ってるのかなーって」
雨宮が言いにくそうにしている理由は分からなかったけれど、痴話喧嘩という意味は分かる。
「だって、恋人なんですよね? だったら使い方合ってるんじゃないのかな、と」
小首を傾げると、直野が片手でがしがしと頭を掻き、大きなため息を落とした。少しの間沈黙が流れ、いつから気づいていたんだとばつの悪そうな顔を見せる。
「いつから、かな。あ、久保井さんの態度が柔らかくなった時かも。あと視線ですね。久保井さん、ずっと直野さんの背中を追ってたし。それに……」
なんて表現したらいいのだろうか。
どことなく眼差しに甘気が帯びていて。その気配は微かなものだったけれど、興味を持った多紀は久保井をそっと観察していたのだ。
揺れ動く瞳の色を再現したくてスケッチブックに水彩鉛筆を走らせていた。
心の琴線に触れるもの。
本能的に綺麗だと認識したものに対して、それを自分の手でも表現できたらと、いつも衝動に駆られている気がする。
「それに?」
「あ、その。久保井さんの目があんな色をしてたから」
指したのは、雨宮の好意で置いてもらっている多紀のポストカードだった。ちゃんとした印刷物ではないので商品にはしていないが、フォトスタンドに淹れてカウンターの飾りになっている。
アクセントにいいし、気に入ったからと、描いた絵を店に飾ってくれる雨宮に多紀は感謝していた。
「オレンジ色?」
直野がスタンドを手に取る。
「オレンジにちょっと黄色が入ってるんです。あったかいなって」
「そうなのか。オレは青のイメージなんだけどな」
「主観は人それぞれってわけだね。少なくとも、悠馬が気づいてない所で、和己も熱を持っているというわけだ」
雨宮が小さく笑う。
直野はもう一度ポストカードを眺め、スツールから立ち上がると大きな伸びをして厨房へと消えていった。
「あの、ぼく変な事言ったでしょうか……」
感覚で話してきちんと理解してくれるのは信尋ぐらいなので、もしかしたら直野を不快にさせたかもしれないと不安になる。
「ああ、違う違う。その反対だよ。あれは機嫌がいいから、和己の好きなものでも作ろうとしているんだよ。今日は予約がちょっと多いから、きっと閉めるの遅いだろうし。夜食の仕込みでもしてるんじゃないかな」
雨宮がおまけだと、小さな銀色のカップを多紀に渡す。
「今日のスイーツの一つにするプティングだよ。今夜は広瀬君にも頑張って貰うから、先にエネルギーを入れておいてね」
「ありがとうございます」
受け取ると、雨宮が柔和な微笑みを浮かべる。
「まだ時間もあるしゆっくりしていたらいいよ。今日は早めの出勤だしね。彼に送って貰った?」
信尋が何度かここに来ているのもあり、雨宮は覚えているみたいだった。
「はい。信尋もバイトだからついでだって。終わったら真帆ちゃ……と、姉と一緒に迎えにくるみたいです」
「大事なんだね、君の事が」
「大事にされているのは、何となく分かります。なんか、信尋とは昔から一緒にいるみたいだし。それに、誰よりもこの趣味を応援してくれるから」
ポストカードに描いた絵やキャンバスに彩ったもの。
それらを肯定してくれるのは姉しかいないと思っていた多紀にとって、信尋は初めて家族以外に認めてくれた相手だった。
幼い頃は絵を描くのが好きで、外で遊ぶよりも室内で絵を描いているのを選ぶ子供で、母親にクレヨンを買って欲しいとねだっていた。
母子家庭で父親がいない為、よく家で留守番をしている時は何枚も描き殴っていて、すぐにクレヨンや色鉛筆がなくなっていた気がする。
最初は買ってくれていた母親だったけれど、多紀のそんな姿をどこか辛そうに見ている彼女に気づいた時、母親の前では絵を描く事を極力しないようにしていた。
その母親が再婚をしたのは、多紀が中学一年の時。
再婚して出来た義父が、あまり美術関係が好きじゃないと気づいてからは、ますます誰にも好きだと言えなくなっていた
なので、学校で貰ったプリントの裏に鉛筆で色々なものを模写して描いたり、中学高校では美術の時間に好きなだけ画用紙やキャンバスに描き続け、アルバイトが出来る年になると、それで画材を買って公園でスケッチをするのが日課となっていった。
趣味のままでいいと思っていたし、高校の進路で美術系の大学を薦められた時も、少しだけ心が揺らいだけれどすぐに諦める事が出来た。
実際に、あの時までは絵を描くことはひっそりでも構わないと思っていたのだから……。
「それ食べ終わったらでいいから、着替えてきてね」
「え、あ、はい」
雨宮の声にはっとすると、多紀は残っているカラメルをスプーンですくう。
甘くてほろ苦い味。
喉と舌を少しだけ焼く甘さ。
(……仕事しなくちゃ)
ふるりと緩く首を振り、意識を切り替える。多紀は雨宮にカップを返すと、スタッフルームに足を向けていった。
「お疲れ」
お疲れさまでしたと挨拶を返すと、相手のレンズの奥の瞳が和らぐ。
やっぱり久保井のイメージカラーは暖色系だなぁと思いつつ、多紀はもう一度ぺこりと頭を下げた。
シルバーフレームの眼鏡に、切れ長の眦。接客の時は物腰が柔らかく、背もルックスも申し分ないくらいに備わっている。実際に年輩の受けはとてもいいし、リピーターに至っては久保井に会いにくるファンもいるくらいだ。
直野は久保井のカラーを青と表現したけれど、どうしてだろうかと疑問が浮かんでくる。
「どうしたんだ? 何か言いたい事あるんだったら、遠慮なく言っていいぞ」
余りにじっと見つめていたのか、相手が不思議そうな顔をする。
「綺麗だなって。あったかい色してるなって、思って」
「あったかい、ね」
思ったままを伝えたけれど、上手く伝わらなかったらしい。
「あ、あの……っ、その、すみませんっ」
自分の答えに、多紀は慌てて口をつぐんだ。
久保井は多紀に近づくと、ぽんと頭に手を乗せる。そのままくしゃりと撫でられ、指の感触が気持ちいいと思っていると、久保井は小さな笑みを見せながら、猫みたいだなと返した。
「ねこ、ですか? 信尋にはリスの擬人化だって言われたんですけど」
「……擬人化? なんだそれは」
意味が分かりかねている久保井に、何かを人に例える事をいうみたいだと説明したが、かなり言葉が足りていないかもしれないので、今度信尋にもう一度説明してもらおうと胸にメモをする。
「信尋って、たまに広瀬を迎えに来ている奴だよな。これを渡して欲しいと昨日頼まれたぞ」
久保井がロッカーから持ってきた紙袋には、いくつかの封筒が入っていた。