夜空の漂流船
聡美さん−普段は永田さんと呼んでいる−は、会社での直属の上司だ。僕より4つ年上の32歳で、僕たちの関係が始まったのは1年前だ。なお、彼女には2年前に結婚した夫がいる。夫のことはあまり詳しく知らないが、どこかの貿易会社かなにかで働いているらしい。
「6年間付き合ってプロポーズされたの。待ってたわけじゃないんだけど、断る理由もなかったから」
と言っていた。
仕事のときの聡美さんは、いつも険しい顔をしてパソコンに向かっている。誰かと話をするときは表情を和らげて、アナウンサーみたいなはっきりした声で話す。
仕事ができる上に面倒見がよいので、若手の女子社員によく慕われている。バレンタインには、あげるチョコよりも貰うチョコのほうがかなり多いみたいだ。
僕と聡美さんは、会社では普通の上司と部下として振舞っていた。当たり前といえば当たり前のことだけれど。仕事中に二人きりになっても、決してその関係を崩したりはしなかった。それはなんというか、絶対に侵してはならないルールのような、それぞれの世界を分かつ不可侵条約のようなものだった。
僕は、ふたりでいるときの気ままな聡美さんを好きだし、仕事のときの部下には優しく上司に物怖じしない永田さんは尊敬している。
ふたりで会うときは、いつも僕の方から携帯にメールを入れる。携帯をチェックする聡美さんの表情を、いつも、遠目にこっそりと伺ってしまう。でも、何らかの感情を読み取れることはなかった。
聡美さんが先にホテルの部屋をとって、コーヒーを入れて待っている。部屋の番号をメールで教えてもらい、そこに僕が行く。
それがいつもの僕らのルールというか、手順だった。