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女神

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 山田は酔っていた。笑いながら、そのフォグラ状態になりつつある巨体を揺らした。
「帰るよ」と言って、宗一は席を立った。
「一言、言っていいかな? この女はヒョウだよ。男を喰っていきるヒョウだ。君はこれ以上、深入りすると破滅するよ」
 宗一は歩みを停め、振り返りおどけて、
「先生。それは経験からですか? それとも学校で教えてもらったのですか?」
「そんなことはどうでもいいよ」
 宗一はラウンジを出た。テーブルに沈黙が訪れた。沈黙は破ったのは、田村である。
「技術文明は恐ろしいほどのテンポで進んでいる。その中でも、コンピュータは人間に関わる分野で浸食し、人間を排除している。これは文明の危機を意味するだけではない。人間、そのものを否定するものだよ。政治も経済も文化もコンピュータが勝手につくり出す。人間に最後に残されるのは間違いなくセックスだけになる。人は再び、原始人のようにセックスに励むしかない」と笑った。

 一ヵ月後、彼女の写真集の一部が週刊誌に出ると、多くの話題をさらった。そして写真家とマリアの関係も流れた。晶子はそのことには触れなかった。宗一も自分から進んで弁明することもなかった。
 タイから宗一が帰国した後の家庭は、以前と少しも変わらないように見えた。けれども、晶子の心のうちには、心の中の傷が深まっていた。そして、ふとした拍子でうずく。自分はどんな罪を犯したというのか。彼女は宗一と過ごした十年を振り返る。何も思い当たる節はない。自分はただ宗一と結婚し、十年の歳月が過ぎた。今、思い出しても、あっという間の出来事のように思える。そして、自分は確実に老け、夫に恋人が出来た。自分より十五才も違う。もうちょっとで親子ほどの年の差だ。とても嫉妬する気にはなれない。たぶん、夫には滑稽なピエロのようにしか映らないだろう。本当は大声で泣き、怒りたかった。晶子の精神的に不安定になったのは、この頃だ。

 タイから帰国後、マリアは宗一に一度も顔を見せなかった。
 彼が自分の方から出向くにはあまりにもプライドが有りすぎた。そうこうしているうちに一月が過ぎ、季節はあっという間に春から夏に変わろうとしていた。その間、マリアへの思いはますます強まり、いてもたってもいられなくなった。男と女の関係は一つのゲームである。のるか反るかという際どさが、かえって情熱を注ぐ。ゲームに熱中した宗一の心の中に妻の思いは消えていた。
その日は、夏の強い日差しが窓から射していた。
 キッチンのテーブルには白い花が飾られていた。仄かに甘い香りが漂っていた。
 眼を醒まし椅子に腰掛けた宗一に、晶子はコーヒーを出した。
「あなた、聞きたいことがあるの」と晶子はどこか虚ろな声で言った。
「今日でないと駄目か?」
 彼は新聞を読みながら逆に聞き返した。
「いえ……」と俯いた。
 コーヒーを飲み干すと今度は宗一が、
「これから出かけないといけない。今日は帰らぬかもしれない」と言った。
「また、どこか出かけるんですか?」と晶子は聞いた。
「ああ、北海道へ」
「何のため?」
 宗一は驚いて振り返った。未だかつて、理由など彼女は聞いた試しがなかったからである。
「仕事に決まっている。下らんことを聞くな!」
 宗一は妻を睨んだ。今の宗一に何を言っても無駄であることを悟った。
「あの人のところに行くのね。私達はもうおしまいね」と言った晶子の眼が、涙でうっすらと濡れた。
「何か言ったか?」と席を立とうとする宗一が聞いた。
「いいえ何でもありません」

 札幌に着くと、マリアの泊まっている部屋に電話した。
「先生、私達の関係はもう終わったのです。帰国のときにそう言いました」と事務的に言った。
「なぜ?」と宗一は問い返した。
「先生には奥様がおありでしょう。私達の関係は何もなかったように終わるのが一番いいのです」
「君は良くても、僕は君を忘れられない」
「……」
「もう一度だけ会ってくれないか」
 暫くして、「いいわ。下の喫茶店で十時に」と言ってマリアは電話を切った。
 本当ならもう少し寝ていた頃だ。彼女は裸になり、バスルームに入った。軽くシャワーを浴びると、鏡の前に立った。鏡に映った乳房に小さな痣がある。タイの暑い夜に、宗一が強く噛んだ後だ。軽く押すと、その夜の甘い快感が蘇ってきた。
 バスルームから出ると、白いワンピースを着た。鏡の中に映った自分の姿を見た。
「なんて悲しい顔している、マリア。もっと前を見なさい」
 鏡の中のマリアはニコっと笑った。
 
 どれだけ待たされたことだろうか、宗一のテーブルの灰皿は煙草で一杯になっていた。
「随分、待せるね」
「そうかしら」と微笑みながらテーブルに座った。
「君にとって、僕は何だったのだろう?」と切り出した。
「分からないわ。でも、一つだけ言えることは、過去に興味はないの。いつも、前を向いて歩きたいの。過去を振り向くのは嫌」
宗一の心の中を稲妻みたいな衝撃が走り向けた。
「灰がこぼれるわ」と言ってマリアは、灰皿を差し出した。
「有り難う……単なる火遊びか。俺も年をとったものだ。遊んだつもりが、遊ばれていただけか」
「先生に捨て台詞は似合わないわ。そんな捨て台詞は田舎者の専売特許よ。それに私達の関係はここで終わるのが一番よ。それ以外にどんな方法があるというの?」と言って微笑んだ。
「君はすばらしい女優になれると思う」
「どうも有り難う」と微笑んだ顔は初めて出会った時と同じように美しく、まるで人を寄せつけぬ美しさがある。ちょうど冬の山が朝日を浴びた時のような神々しく光り輝くような美しさである。
 彼女は席を立とうとする、マリアの手を宗一は握った。
「君なしにはもう生きられないなんだ」
「馬鹿ね、人が見ているじゃないの」
 その手を払い退けようとしたが、思いほか強く握りしめられたので諦めた。
「私はいいけど、先生は……たぶん火遊びですまなくなるわ……地獄を見るわ、きっと」
「構わないさ。君と会わないとき以上に苦しいことなんかあるもんか!」
 この日を境にして、マリアと宗一の関係は完全に逆転する。マリアは宗一のことを先生とは呼ばず宗一と呼び捨てするようになった。

 宗一はちょうど闘牛に似ていた。マリアの愛を得るために盲目的に突き進んだ。宗一はマリアのために都内のマンションを買ってあげた。車も与えた。舶来ブランドの服も数え切れないほど与えた。その報酬が夜毎繰り返される愛の戯れである。彼女は決まって最初は拒む。宗一は彼女の前に平伏し、心から愛を求めなければならない。それが二人の愛の儀式の始まりだ。宗一の欲望が高まり、爆発寸前のところでマリアは宗一に身を委ねる。毎日少しずつ異なっていても、基本的なパターンは一緒であった。マリアは何ヵ月か繰り返すうちにその虚しさに気づいた。
冬のある日、夜明け頃、マリアがマンションに帰ると、宗一が待っていた。
「今日もいたの」とマリアは上機嫌で話しかけた。宗一は答えない。
「奥さんはそんなにほっといても大丈夫なの」
作品名:女神 作家名:楡井英夫