女神
「いいわ」と素直に答えた。
一週間後、二人を乗せた飛行機が翼を拡げ、飛び立った。雨がしめっぽく降る五月のある朝のことである。
果てしなく続く雲海を越えると、そこは青の空間。無限大に広がる宇宙の闇に連なる世界に出会う。
「神様になったみたい」と上機嫌にマリアが囁いた。
「飛行機は初めてかい」
マリアは頷き、子供みたいに窓の外をのぞきこむ。そして、彼女が話かけようとして振り返ると、宗一は眠っていた。
宗一は夢を見ていた。旅仕度をする妻の顔が涙で濡れている。彼はすまないと思い慰めようにとして肩を叩くと、妻が振り返った。その顔に彼は驚き目覚める。到底、人間の顔とは思えなかったからである。
「先生、どうしたの?」
「なんでもない」
「悪い夢を見たのね」と言ってマリアがハンドバックからハンカチを取り出し、その顔を拭いてくれた。
宗一が窓の外を見ると、飛行機はまだ空高く飛んでいた。
チャオプラヤー川の河口にて、夕日に染まるバンコクを二人は観る。
「バンコクは東京よりも、ダイナミックな街で、古いものと超近代とが渾然として溶け込んでいる。タイのあらゆるものが、人も、物も、芥も、全てのものが母なる、このメナムを通りバンコクに集中するんだ」
「メナムって」
メナムのメーは、母を意味し、ナムは水だ。そして、タイ人は全ての河をメナムと呼ぶんだ。さあ、こっちを観て。あんまり笑わない方がいい」
タイに来て、どれほどシャッターを押したことだろう。大都会バンコクの雑踏のなかで振り向くマリア、降り注ぐ亜熱帯の雨のなかで子猫のような顔したマリア‥‥
「明日はスコータイに行こう」
「スコータイって」
「タイ文明発祥の地さ」
タイに来て二人は毎晩のように愛しあった。
五度目の夜、宗一は明かりを消し、マリアに身体を抱き締めた。そして、キスをし、衣服を脱がそうとした。その手をマリアは制した。
「今日は疲れたの。今夜はゆっくり休ませて」
マリアは初めて、宗一の情熱を拒んだ。彼は明かりをつけようと思ったが、止めた。マリアの拒絶した顔を見るのが怖かったのである。
暗闇のなかで微かにマリアの吐息がした。
「僕のことが嫌いになったのか」
それはとても小さな声だった。しばらくたって、
「私も先生のことを嫌いじゃないし。それに尊敬している……
「それじゃ」
「でも、今日は何もしたくないの」
とても小さな声であったが、明らかに拒絶の意思を明らかに表していた。
タイの歴史の発祥地スコータイは、大都市から離れているせいか、訪れる観光客も少ない。そこには、幾つも人工池、崩れかかった城壁、数えきれない円柱、雨に晒された仏像などがある。
既に日は高く昇り、風にそよぐ木立は地に影を描いている。まるで生き物のように風は蠢く。マリアにつられて歩き回ったせいか疲れを感じた、秋山は、木影に腰を下ろした。
「先生、何を見ているの」
宗一は木立の影を指差すと、マリアは笑いこけた。
「何かおかしい?」という宗一の顔に少し怒気を認めた。
「ごめんなさい。でも、怒らないで。私の父が病院に入っていたとき、私が十歳のときだわ。隣の病室に若いお兄さんがいたの。私が寂しそうにしているのを見兼ねて、その人がいろんな話をしてくれた。今、考えても難しいことばっかり。たぶん、お兄さんは、哲学者の卵だったのね。ある日、夏の日の昼下がりと思う。病院が気だるい熱気に包まれ、まるで仮眠しているように静まり返っていた。中央に大きな樹がある庭に出ると、そこにお兄さんが休んでいた。そして私が行くと、微笑んで言ったわ。『時間が止まっているように静かだろう。でもこうしたときでも、時間は確実に歩みを進めているんだ』。私はなぜか、とても怖かった。当たり前のことをどうしてあんな顔で言うのか分からなかったから。そのときから兄さんを避けたわ。そして、一週間後に死んじゃった。なんとなくそのときのお兄さんの顔を思い出して、二重写しになったの。でも、なぜ私は笑ってしまったのかしら? ごめんなさい」
異国の風景に多くの人間は浮き上がるか、埋没するかの何れかだ。が、マリアはその何れでもなかった。まるで、悠然と身を構えている。少しも臆するところも不自然さもない。
「これどう」とおどけて、壁の中の仏像のようなポーズをとった。降り注ぐ亜熱帯の光の強さに少しもへこたれる様子はない。
「いいね」と調子を合わせて、シャッターを押す。
二人が帰国した。
「先生、これで終わりにしましょう」とマリアは分かり際に言った。
その言葉の意味を理解せず、宗一は適当に「いいよ」と答えた。
週刊誌に宗一がマリアとともにタイに出かけたことが載った。そのことを彼は知らない。妻の晶子はそれを買って丹念に読んだ。宗一はいつも変わらぬ顔で家のドアを開けた。妻はにこやかに迎えた。が、内心、誰にぶつけたらいいのか分からない怒りが鬱積している。嫉妬が生み出したものだろうか。嫉妬? まだ三十五才だ。そこいらのおばさんに比べれば十分に美しい。が、マリアに比べたらどうだろうが? いや、そう思うだけで何やら口惜しい。また、宗一が自分よりもマリアに心が傾いているどうか、問いただしたかった。けれど、そのことが即ち自分がマリアより醜いということを認めたことになるになるのではないか。そういった思いが彼女の心に交差した。それをどうすることのできない自分に歯痒さを感じた。
「どうした、顔に何かついている?」
「いいえ」と晶子は慌てて視線を逸らした。
宗一は前とちっとも変わらぬように映るが、晶子は何かが違うことをすばやく感じ取った。少し優しい。その夜、宗一は珍しく晶子を抱こうとした。
「あなた疲れているでしょう。ゆっくりお休みになったら」と晶子は優しく拒絶した。
「ああ」と心もとない返事を宗一はして、すぐにいびきをかいて寝入った。
晶子は、本当は抱かれたかった。でも、素直に抱かれる気にはならかったのである。いったい何がそうさせるのが自分でもよく分からなかった。
東京の夜、夜景が一望できるホテルのラウンジで、宗一は悪友達にあった。
「美しいね。まるでエロスの美神だ。でも、こんな潤んだ目は普通しないな」と写真を眺めながら、編集長の山田は意味ありげに笑う。
「どういう意味だ」と宗一は尋ねた。
「女の目はとても正直なんだ。こんな満たされた聖母みたいな美しい目は、性欲が満たされときしかしない」
宗一は聞こえないふりをして、独りでビールを飲む。そこに批評家田村が来る。東大の文学部を出た、飛ぶ鳥落とす勢いの新進の批評家である。
「坐っていいかな?」
「どうぞ、先生」
テーブルの上にある写真を田村は見る。
「女というのは蝶だね。自分でも気付かぬうちに変容(メルクフォーゼ)する。これ、女優の吉川マリアだね? 田舎娘がどうしてこんないい女に変わるのかね?」
「先生は何人の女をメルクフォーゼさせました」