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女神

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『女神』

 女の美しさというのは、男の愛欲を掻き立てる炎である。女優のマリアは恐ろしいほど美しい。一度、マリアの虜になったら最後、男はその魅力から離れることができず焼かれてしまう。写真家秋吉宗一もその例外でなかった。 

 東京にも近くて自然もまだ残っている房総半島に宗一の家がある。春にもなると、周囲の山々の木々が若葉をつけ、目にも鮮やかな緑色に染まる。そんな四月のある日の朝のことである。
宗一が仕事をしている二階の部屋に妻の晶子がコーヒーを持って入ってきた。彼は写真を飽きもせず眺めている。背後から近づく妻に気つかない。
彼女は歩みを止めた。
「あなた、コーヒーよ」
「そこに置いてくれ」と気のない返事をする。
 机の上にはいくつかの女の裸をとった写真がある。晶子は美しいと思った。自分が若かりし頃、最も自分の美しさに自信がある頃と比較してもかなわない気がして、ちょっと嫉妬めいたものを感じた。
「どうして、女の人を撮る気になったの」
「頼まれたんだ。A出版社のB君にね。君も知っているだろう。彼が女優マリアの写真集を出すというので頼まれたんだ」と呟くように言った。
 去ろうとしない妻に対し、「何か用か?」
晶子はまるで魅入るように写真を見る宗一にいやな胸騒ぎを感じたのである。
「別に何でもないわ」と言って晶子は出ていった。
部屋の中は再び沈黙が支配した。彼はタバコに火をつけ、初めて吉川マリアに会ったときのことを思い出した……

 吉川マリアと出会ったのは半年前、神戸のレストランである。
 宗一は一時間遅れて入った。窓辺の神戸の町並みが一望できるところにマリアは座っていた。
「待った?」と宗一が聞くと、
 マリアは微笑し、「随分と待ちました」と素直に答えた。
 宗一はしばらく考えると、「いつも男を待たせる方だろ? 少しは待つ人間の気持ちが分かったって、良かったじゃないか?」
「先生、ずいぶんですわ。わたくし、一時間近く、ここで待っていました」
「そうふくれるな。じゃ、お腹がぺこぺこだろ?」
マリアは笑みを浮かべうなずいた。
「その方が、美味しく食事をすることができる」
「私、フランス料理のフルコースを食べたい」
「ここの料理は日本でも十本の指に入る」
「いただいていいの?」
「ああ、好きなだけ」
 ボーイが来た。彼女はメニューに指さして、「これにして」と言った。
宗一は「同じものでいい」と言った。
 ボーイが去ると、「こういった格式ばったところで食べるのは今日が初めてなの」とマリアが小声で言った。
宗一は笑ってタバコに火をつけた。さりげなくあたりを見回した。店の中はほとんどの椅子は埋まっている。が、誰も二人には気づかない。
 あらためてマリアに視線を向けると、マリアは微笑んだ。宗一の胸は少しときめきを覚えた。今までマリアのように美しく澄んだ瞳を見たことがなかったから。
「私、先生の写真集を持っているんです」
「どんな写真集だ?」
「森を撮った写真集です」
 数年前に青森の森を撮影した写真集のことを言っている。
「そうか」
 世間的には高い評価となったか、なぜか宗一はさほど満足していない。
「先生に撮ってもらったらどんな風になるのか、と今からわくわくしています」と嬉しそうに言う。
 写真集を出すと事務所が決めったとき、撮影者として写真家の宗一を選定したのは他ならぬマリア自身である。彼女は宗一の熱烈なファンで、彼の書いた本も持っている。
「それはかまわないが、後悔しても知らんぞ」と挑発するような眼差しをマリアに向けたが、微笑みで受け流した。その微笑みはまるで女神のように慈しみに溢れている。むろん、擬態である。演じているだけである。だが、宗一は完全に騙された。
 食事を終えた頃、
「今日、初めて神戸に来たんです」とマリアは言った。
「じゃ、泊まるところは?」
彼女は首を振った。顔が少し赤い。ワインを飲み過ぎたのだろう。
「じゃ、僕のところに泊まればいい。シングルの部屋がとれなかったんだ」
「危なくありません?」
「そう思うなら、自分で探しなさい」 
「変なことになりませんよね?」といたずらっぽい視線を向けると、
「なるかもしれない」と平然と答えた。
マリアはしばらく考えた末、意外にも、「じゃ、お願いします」と言った。
 撮影者がなぜ宗一でなければならないのか、と尋ねられたらマリアは答えられないに違いない。宗一のファンであることは間違いなかったが、だからとって、確固たる根拠があったわけではない。直観、あるいは単なる気まぐれの類であったが、ともかくも彼に最初の写真集は撮って貰いたかったのである。そのためには何でもしようと決心して来た。
 海辺のホテルに戻る頃には、彼女は完全に出来上がっていた。宗一に抱き抱えられるようにして部屋に入ると、窓から外を眺めた。
「綺麗。夕日に反射して黄金色に海が輝いている」
宗一も窓辺に寄った。そっとマリアの肩を抱いた。
「でも、君の方がもっと綺麗だ」
 いつしかその豊かな胸に手を当てていた。マリアは逆らわなかった。
「先生、そういって女を泣かしてきたんでしょう」
 宗一はマリアの瞳は見た。すると、眼をゆるやかに閉じた。それが合図だった。口づけをした。何という甘美な衝撃が身体を貫いたことだろう。自分の歳も忘れ、青年のようにマリアを抱き締めた。
「先生、痛い」と甘ったるい声で呟いた。
「ごめん」
マリアが笑った。
「何がおかしい」
「だって子供みたいなんですもの」
 宗一は再び抱き締めた。既に激しい恋心の嵐に包まれていた。その指、息、体にの彼の熱情をマリアは感じていた。女にはない荒々しいものは、女を目覚めさせ酔わせるものだ。それは、ちょうど大波に弄ばれる小舟に似ている。処女なら恐ろしさに身を縮めたに違いないが、マリアは既に処女ではなかった。その大きな波をしなやかな身体で受けとめた。
快楽の嵐が通り過ぎた。
「君はとてもきれいな目をしている。まるで、子猫、いや女神のような美しい目をしている。でも、なんだか、ずっと見ていてはいけないような気がする」
 宗一に身を任せながら、マリアは、「どういう意味?」と聞いた。
「まるで、とてつもなく透明で際限のない井戸の底を覗き込んでいる気がする。ちょうど、宇宙の遙か彼方に輝く星を観ているようだ。もっと近づいてマリアという人間を知りたい。近づいたつもりなのに、遙か遠くにいる。そういったもどかしさを感じる。君は今までどこにいたのか? 何をしていたのか?」
マリアは微笑んだ後、「先生のおっしゃること、難しくて分かりません」と背を向ける。
しばらく二人は沈黙する。
「こっちを向きなさい」と背中を軽くなぞる。
「くすぐったい」と言ってマリアは振り向く。見つめられた宗一は意外にも真面目な顔していた。
「今度はタイで君を撮りたい」と宗一は顔を向ける。
「どうして?」とマリアは微笑む。
「君の笑顔を観ていて、ふと、タイに行きたくなった。タイは不思議な国だ。日本と同じ東洋なのに、同じようで同じでない。そして、あの国は日本以上に混沌としている。まるで泥の沼に咲いた蓮の国だ。とても不思議な国だ」
作品名:女神 作家名:楡井英夫