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この手に短編集

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 久子宛の手紙には、いつも大したことは書いていない。代わり映えのしない近況報告と留守宅を案じる決まり文句、出すための手紙を書いているといったようなものだ。だが、一緒に送られてくる勝子宛のそれは、きっと違う。久子の手紙は、勝子に手紙を送るための口実にすぎないのだ。
 そう、みんな分かっているのだ。
 分かっている。だから、今更驚かないし、傷つかない。そう思っていた。

 下関に着き、そこから連絡船に乗って、朝鮮半島に上陸する。釜山からはずっと汽車だ。朝鮮独特の樹木の少ない山間を抜けて、半島を北上していく。やがて満州国との国境にさしかかり、列車はしばらく停止した。
 二年ほど前、勝子も一人でここを通ったのだ。きっと、今の自分のような気持ちではなかっただろう。嬉しくて心が躍っていたに違いない。山下がもっともらしい理由を付けて、勝子一人を牡丹江に呼び寄せ、十日ほど滞在させた。あの時も、久子は戻ってきた妹になんでもない振りをするのに、気が滅入ってしまった。
 満州に入っても、山下のいる牡丹江までは遠い。景色が今までの山峡から、平原になってくると満州に入ったな、という実感が湧いてくる。鎌倉を発ってから、もう五日ほどたっていた。そんな頃、ある駅で汽車が止まる。久子の寝台席に人が来て、一通の電報を渡し、すぐ降りるように、と言った。
 山下は南方に転任が決まったので、今から飛行機で東京に戻る、という。
 久子が牡丹江へ行く意味は、何もなくなってしまった。
 飛行機で戻る山下は一日二日もあれば東京に着くが、久子はそうもいかない。今までの道のりを引き返すしかない。いつ南方に発つのかは分からないが、この時期、そうのんびり出来るものでもないだろう。今から急いで引き返しても、間に合うかどうかは分からない。それでも久子は、逆方向の汽車に飛び乗った。

 山下が東京に着いてから一週間たった頃、久子はやっと東京に戻ってこられた。山下の南へ発つ予定が雨で一日延びたために、久子は辛うじて夫と会うことが出来た。久子が長い道のりを戻っている間に、山下は親戚への挨拶をすべてすませていた。雨で出発が延びなければ、きっと久子に会わずに行ってしまったのだろう。
 これが、彼のねらいだとしたら……さすがに堪えた。考えたくなかったが、考えられることだった。そこまで疑心暗鬼になりたくなかったが、やっぱり考えてしまう。
久子が必死で戻ってくるまでの時間を、山下と勝子は作ることが出来たのだ。そしてその計画の成功を喜んでいるかもしれない。
 これも、自分の考え過ぎなのだろうか。
 ここまでされても、全部、偶然なのだろうか。
 私の運が悪いだけなのだろうか。
 東京に着いたその足で、山下の泊まる九段下の偕行社へ向かう足は、これまでのどんな時より、重かった。何気なく二人が自分を迎える時、今までのように「振り」が出来る自信がなかった。

 案内された部屋に入るなり、ピリ、とした空気が伝わってくる。重い雨の降る音だけが、やけに大きく聞こえていた。意外なことに、山下は一人だった。そのことにほっとした自分に、少し嫌な気持ちがする。
「この雨で出発が延びなければ、間に合わなかったところだ」
 咎めるでもなく、残念がるでもなく、かといって喜ぶ風でもなく、山下は抑揚のない声で言った。久子は、窓の外に向けられた夫の横顔を、ぼうっと見た。何と答えればよいのだろう。自分がどう答えることを、彼は望んでいるのだろうか。いかに疑心暗鬼になろうと、久子は自分なりに良き妻でありたいと願っていた。実際にそうだという自負もあった。それは、本当は寒々としている夫婦関係を表面上にはみせないようにする効果も、あるにはあったが、そういったことを抜きで、純粋にこの人に相応しい相手になりたいと願っているのは、結婚が決まったときから変わっていない。
 そして、久子は軍人として出世した夫を誇りに思っていたし、それに自分も満足感を得ているのは、間違いがなかった。
 久子が黙ったままなので、山下が再び口を開いた。
「また南に行く」
 緊張した面持ちだった。前に聞いた「南に行く」とは、明らかに違う重みが、のしかかるようだった。
 久子は、以前の南方出征の時のことを再び思い起こす。あの時は、まさか戦争に行くとは思ってもいなかった。もしかしたら、という気持ちはいつも片隅に持っていたけれど、不安は全然を感じなかった。山下も、今日ほどの緊張も不安もなく発っていったからだろうか。
 あの時、シンガポール攻略の指揮官が山下だと表になったのは、既に陥落も間近という頃だった。何の根拠もなかったが、この報を知ったとき、久子は「ああ、やっぱりそうか」と思った。人間には予感というものがあり、的中するものなのだ。夫が勝って帰ってくると、何故か強く確信出来たのだ。久子は、そういう風に思えている時の、山下奉文の妻である自分は気に入っていた。
 シンガポール占領を達成したマレー作戦は、一大ブームを巻き起こし、映画まで制作された。シンガポール軍との停戦交渉の場面も、ニュース映画にさかんに取り上げられ、山下は国民的英雄となった。久子はとても誇らしかった。それが妻としての誇りだし、喜びだし、久子の当面の生き甲斐だった。それにすがるしかなかったのかもしれない。
 だけど、今度はどうだろう。久子は直感的に、これが最後なのだ、夫は帰ってこない、と感じた。やはり根拠はない。でも、分かるのだ。山下もきっとそう覚悟しているのだろう。不安が湧かないのが自分でも不思議だった。死出の旅と知りながら、形式的にでもそれを止めようという気すら起きない。悲しみよりもあきらめの気持ちが強く、それを飲み込むかのような虚無感が襲っていた。このまま黙って見送って、あとはこの人の死の公報を待つだけなのだ、と、いやに冷静な思考が頭をよぎった。
 これが、軍人というものなのだ。
いったん戦争が始まれば、夫は死ぬもの、海外赴任が長くて、別居生活が多いのも、当たり前と思ってきた。それと引き替えに、陸軍大将になり、華やかな戦果も挙げ、英雄になった。軍人として、軍人の妻として、これ以上望むとしたら、あとはお国のために名誉の戦死をして、英霊になることだろうか。
 そうなれば、自分の俗っぽいあの一連の悩みのことも、きれいに一掃できるかもしれない。そんな心がどこかにあった。そのためには、それは完璧な栄達の終着点のように思えた。
 次の日、久子は黙って山下を見送った。裏切られたことも、計られたことも、ただす勇気はなかった。

 もう、帰ってこないのだ。
 だからもう、官舎の一番奥の部屋で二人が何をしているのか気にしつつも気付いていない振りをする必要もないし、夫婦二人きりでいると感じてしまう気まずい雰囲気にいたたまれなくなることもない。
 だから、むしろほっとしたような心地さえしていた。
 本当のことを切り出されることを、恐れることもない。
 本当のことは、全部彼が持っていってしまったのだから。
この疑心暗鬼の毎日から、ずっと、逃れたいと思っていた。でも出来なくて、どんどん自分の心の中がどす黒く、どろどろしていく様だったのに、こんなに気持ちが楽になる展開が存在するなんて、考えたこともなかった。
作品名:この手に短編集 作家名:くりはら