この手に短編集
真実
いろいろなものを見ない振りをしてきた。
いろいろなものに気付かない振りをしてきた。
望まずして、何気ないことの裏から、真意を嗅ぎ取る感覚が、鋭くなってしまった。
何も見なければよかった。
何も気付かなければよかった。
人を疑うのは嫌いだ。
自分がとても嫌な人間に見える。それで、疑っている自分を疑うことにした。考えすぎているのは自分だと、思うことにした。したかった。
何も知らないふりをして、何気なく振舞うことに神経を尖らせなければいけないこの毎日は、全部自分の猜疑心が強すぎるだけの結果で、本当はそんな必要はないのかもしれない。そう思いたい。
でも、かも知れない、では駄目だ。
かといって、はっきりさせるのは怖かった。自分の疑り深さが露呈するのは構わない。でも、自分の疑いが事実だと判明するのは、今感じている苦痛のどれよりも耐えがたいことだった。
昭和十九年九月末、久子の夫・陸軍大将山下奉文は、満州北方の牡丹江に赴任していた。その任に当たってから既に二年以上、決して短くはない。将校には家族を呼び寄せているものも少なくなかった。しかし彼は、妻である久子を呼び寄せることもなく、大きな官舎に一人で暮らしていた。……そのことはいい。戦時下でもあるし、妻子と共に暮らせない部下将兵を多数持つ身として、妻を呼び寄せることをためらっているのであろうから。
そう思って、久子は鎌倉の留守宅で暮らしていた。そんな時、突然彼から久子を呼び寄せる旨の連絡が入った。
これを聞いた時、久子は一瞬、いつもの疑い癖を忘れた。純粋に嬉しく、少しほっとしたような、救われたような気持ちになる。その後にいろいろ考えてしまうことを抹殺しようと、すぐに準備にかかった。妹の勝子が、荷造りを手伝ってくれる。
あっちは寒いから、といって冬物を手際よく用意する勝子をちらりと見て、久子は思った。
私も連れていって、とは言わないのだろうか。
よく考えれば、勝子と一緒に暮らして長いが、この妹は決して自分から久子たち夫婦と一緒に住みたいとか、一緒に行きたいと言ったことがない。久子が誘うのに応じているだけである。逆を言えば、久子が「勝ちゃんも一緒に」と言わなければ、勝子は決してついてこないのだ。
しかし、それに託けてこれ幸いにと誘わないと、もっと惨めになるということは、経験済みだった。かといって今、勝子が行きたいという素振りも全く見せず、久子一人で行くものと振る舞っている所に、わざわざ「勝ちゃんも一緒に」と言うのは癪だった。気付いていることに気付かれる事を、久子は極度に恐れた。いっそ、勝子がはっきり「連れていって」、と言えばいいのだ。そうすれば久子は、快く承諾するだけで済むのだから。山下が「義妹」を気に入ってかわいがっていることも、勝子が「義兄」をとても慕っていることも、それは何でもない公然の事実なのだから、一緒に行きたい、義兄に会いたいを言うのは、何も問題はないのだ。
しかし、勝子は決してそれをしなかった。だから疑ってしまう。勘ぐってしまう。
いつも思う。これが自分の疑い過ぎだったら、いいのに。久子は心の中でため息をついた。
結局、久子は一人で牡丹江へ発った。まず、東海本線、山陽本線を乗り継いで、下関へ向かう。一人で列車に揺られていると、いろんな事を考えてしまう。
ようやく部隊も落ち着いてきて、家族を呼ぶ余裕でも出来たのだ。だから、呼ばれたのだ。しかし、それなら今まで家族として暮らしてきた勝子を連れてこないのは、どうだろう。でも山下も、勝子も一緒にとは言わなかったし、久子が単身牡丹江についた時、彼ががっかりしようが知ったことではない。
もちろん、がっかりする素振りなんて、決して見せないに違いない。それがかえって、疑いの種になっていることを、彼は知っているだろうか。
同じようなことが、前にもあったな、と思う。
あれは、まだ米国との戦争が始める前だった。やはり山下は満州駐在の軍司令官かなにかで、久子は勝子と一緒に鎌倉にいた。それが、急に転任となり、東京にいるからすぐ来い、と電話があった。身の回り品をあれこれ持ってくるようにと久子に細かく指示して、電話は切れた。どこか遠いところに赴任のようだった。
この時も、山下は何も言わなかったし、勝子も何も言わなかった。
だから、久子は一人で上京した。
そして、荷物を持ってきた久子を迎えた山下が、鞄の中身を細々と点検し、あれが足りない、これがないと文句を言い始めた。そんなはずはない、と久子は思った。電話口で言われたものはきちんと全て持ってきた確信があったからだ。几帳面で神経質な山下が、こういう手落ちで雷を落とすことは、長年連れ添っていてよく分かっている。足りないものはここで買ったら、と言うのを「そんな無駄遣いはできるか!」と突っぱねる夫に、久子は全てを悟った。自分の考えすぎだと思いたかったが、それでも、どう考えても辻褄の合う彼の意図がはっきりと分かってしまった。
久子は鎌倉の勝子に電話をして、足りない物を急いで持ってくるように、と告げた。本人達はさりげなくやっているつもりだろうが、それが逆になんてあからさまなんだろうと、久子は呆れた。それでも、自分の考えすぎであって欲しいと強く思うのは忘れなかった。
あの後、夫婦二人で冷静に勝子を迎える自信のなかった久子は、勝子が到着する頃合いを見計らって、わざと用を作って外出した。
いない方がいいに決まっている。私は全部知っているのだから。
そんなことも知らないで、私がいないことを天佑とでも喜んで、せいぜい二人の時間を過ごせばいい。あてもなく一人街を歩きながら、久子は自分の唇が薄く笑んでいるのに気がついて、何だか泣きたくなった。しかし涙は出なかった。
全部、自分が猜疑心が作り出した幻想だったらいいのに。
心の中でさめざめと泣きながら、久子は長い時間を潰した。
すっかり日が落ちてから、二人の元に戻る足が、とても重かったのを覚えている。
あの時と、似ている。
きっと、何かもっともな理由が用意されていて、彼は勝子を呼ぶのだ。いや、久子に呼ばせるのだ。そうに決まっている。
そしてそれは、二人でもう相談済なのだ。二人がやりとりしている手紙で、手はずは整っているのだ。
赴任先からの山下の手紙は、必ず一度に二通来た。
久子宛と、勝子宛のものである。二人とも自分宛のものしか、決して開封しなかった。どちらも相手の手紙には、全く手を触れない。それがいつの間にか出来ていた不文律で、それぞれの手紙の内容についても、話し合ったりしたことはなかった。
勝子が不在の時、久子が勝子宛の手紙を見ることも不可能ではない。しかし、礼儀とか郵便法とかいう以前に、久子はそれによって自分の疑いが真実だと判明してしまうのが恐ろしく、とても出来なかった。
あの手紙にはきっと、書いてあったのだ。久子に気付かれていないと思っている二人が、おめでたくもわざとらしい策を練っているのが。