この手に短編集
久子が恐れたのは、ひたすらに山下の本心で、勝子にはそれほど脅威は感じていなかった。十歳も年下の、小さな自分の妹と認識していたからだ。
だから、もう戻らないかもしれない彼を送り出すのに、こんなに冷静でいられるのだろうか。山下の背中が見えなくなった後、くやしいのか悲しいのか切ないのか分からない、胸の辺りがいやな気持ちのする涙が、ぼたぼたと落ちた。
こんな風に泣いたのなんて、何年ぶりだろう。
涙とはこんなに大粒で、熱いものなのだ、と初めて知った気がした。
今までどんなに辛くても、泣こうとはしなかった。よけい惨めになりそうで、自分が不幸なんだと思ってしまいそうで、泣くのは嫌いだった。そういえば、涙を見せられる相手も、久子にはいなかった。
あなたはきっと、私を幸せにこそ出来なかったけれど、不幸にもしていないと思ったまま、いくんだわ。うまくやったつもりでいるんでしょう。私は全部気付いていたのに。
それでいい。自分が疑り深かったんだと思ってしまえばいいのだから。
恐ろしい事実を突きつけられることなく、この問題を闇に葬り去る事が出来るのだから。
本当はどうだったかなんて、知らない。
あとは、消してしまえばいいのだ。
ずっと持ってきた猜疑心ごと、忘れてしまえばいい。
私は、何も見なかった。
私は、何も気付かなかった。
そうでさえあったなら、私は幸せな人間なはずだから。
涙が乾く頃には、きっと真っ直ぐ顔を上げられる。