この手に短編集
熱帯夜
非常に寝苦しい夜だった。
夜半過ぎになっても気温は下がらず、じっとりと蒸していて気持ちが悪い。
喜久子はなかなか寝付けなくて、何度も寝返りをうったが、何が改善されるわけでもなかった。
一度起きて水でも飲もうか、しかし起きあがったらますます眠れなくなりそうだ……などとぼんやりと考えていると、突然、肩をつかまれて、喜久子は悲鳴を上げた。
「……そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
隣で寝ていた板垣が、いかにも心外だというように言った。
「驚きます。突然何ですか」
何のつもりか察しはついていたが、喜久子は眉を顰める。
「どうせ眠れない。だから」
板垣が喜久子の手首に手を伸ばす。
「嫌です。余計暑くなります」
はっきりと拒絶の言葉になったことに気づいて、喜久子ははっとする。が、じっとりと汗ばんでいるであろう腕を、掴まれるのさえ抵抗があった。
板垣は、喜久子から手をすんなりと離し、黙って自分の蒲団で就寝体勢に戻った。
「あの」
喜久子は決まりが悪くなり、撤回しようかと逡巡したが、その前に夫に口を開かれてしまう。
「いいよ。無理言って泣かれても困る」
「なっ……」
今、この人は何と言った。血の流れが逆流したかのように、喜久子は恥ずかしくなった。およそ口に出されたい言葉ではない。しかも真実ではない。
「泣きません」
寝苦しさに苛ついていたこともあったのだろう、ついかみつくように反論してしまう。
「……泣いたよ」
「いつのことですか」
身を乗り出す喜久子に、板垣は少し躊躇いを見せながら口を開く。
「その……最初の時に」
「……!」
喜久子は言葉にならないうめきを漏らした後、口をぱくぱくさせたまま絶句した。深夜に会話などすべきではない、と思った。
それは、喜久子にとって忘れられないことだったが、思い出したくないことだった。ましてや、話題になど出したこともないし、出されたくもない。
「何てこと言うんですか!」
ようやく息を整え、泣きそうになりながら喜久子は抗議した。
「君が聞いたんじゃないか」
「だって、あの時は…あなた、いらっしゃらなかったじゃないですか、部屋を出ていってしまって」
喜久子がそう言うと、板垣は何かを思い出すように頭を掻いた。
「……あー、うん、厠に行った」
「ずいぶん長いお手水でしたこと」
つい、刺々しい物言いになってしまう。どうしていいか全くわからなくて混乱しているところに、無言で出て行かれた記憶を、喜久子は長いこと紐解いていなかった。
「……覚えてるんじゃないか」
「ええ、覚えています。黙って一人にされて、全く戻ってこないし、泣きたくなって……」
話題にしたくなかったはずなのに、一度口に出すと止まらない。
途中で、板垣が目を見張ったのに気づいて、喜久子は言葉を呑んだ。
その夜、板垣がいたたまれなくなり部屋を出たのは事実だった。喜久子は彼にそばにいて欲しくないのだろうと察して、厠に立った。
そんなに時間がかかったわけもない。部屋の前まで戻ると、襖を隔てて中から声が聞こえて、板垣はぎくりとした。開けようとした手が止まる。
すすり泣くような声が聞こえる。しばらく立ち尽くしていると、しゃくりあげるような音も加わって、板垣は部屋に入るに入れなくなった。
そのまま、襖に背を預け、廊下に座り込む。
冷たい床が、板垣の先程の達成感を冷ましていく。背後から聞こえる鳴き声に、自然と思考が反省へと赴く。
喜久子の声が聞こえなくなるまで、板垣はそのまま廊下で夜を過ごした。
「まだ四月だろう、羽織も着ずに廊下にいたから結構寒くてね……」
そうしみじみ語る板垣の話を、喜久子は呆然と聞く。
あの夜、確かに喜久子は泣いた。しかしそれは、誰も聞いていないと思ったからで。そういう意味では、板垣が察した、一人にしようという心遣いは正しかったのだが、一人なことにさらに涙がこみ上げたのも事実で。
「今思い出すと、少し涼しい気分になる気がするなあ」
板垣はさらりとそう言ったが、喜久子は涼しくなるどころではなかった。顔から火が出んばかりに、頬が火照る。
「思い出さなくていいです!」
言いがかりなのは分かっていたが、思い出したくないことを思い出して、喜久子は頭を抱えたくなった。
「今更じゃないか」
「今更だから嫌なんです。……気にせずに部屋にお入りになったらよかったじゃないですか」
「そうなんだけど……あの頃の喜久子は警戒心が強くて……触れがたいことが、多かったから」
毛を逆立ててこちらを伺っているが、手を伸ばしても、噛みつきはしない。むしろ、触れようとすると後ずさるような憶病な手負いのけもの。それでも気概とプライドだけはあって、自分を必死で守ろうとしている。板垣に、喜久子はそう、見えていたという。
「だから、泣いていることも悟られたくないんだろうと」
「もうやめてください」
こんなふうに、種明かしをされてはたまらない。それも、なんでもないふうに。当然のように。自分の幼さばかりが悔やまれて、板垣の優しさばかりが時間差で襲ってきて、喜久子はいつも、息が出来ないほどの何かにのまれてしまう。
身体も頭もこの上なく熱を持っていて、もう暑さなどが問題ではなかった。
喜久子は、もうどうにでもなれ、と、求められるままに身体をゆだねた。
きっと、心地よい倦怠感と幸福感が、眠気を誘ってくれるだろう。