この手に短編集
おとうと
その夜は、みぞれ混じりの雨が降っていた。
午前三時頃、兼二は眠れずに聴いていたラジオでその報を知った。とっさに電話に走ったが、繋がるのを待つのもそこそこに放り出し、深夜の雨の中、姉の家へ急いだ。
戸を叩くと、待っていたかのように開き、姉が出迎えた。一同はすでに起きていた。
喜久子はひとしきり彼を労ってから、黙って長いこと、夫の写真に手を合わせて何か祈っていた。
沈黙。
聴いたであろうラジオのスイッチは、今は切られていた。
そのまま休ませてもらった兼二が目を覚ましたのは、日も高くなった頃である。雨はすっかり上がったようだ。
外から聞こえる幾人かの話し声と、玄関の戸が開かれるガラガラという音が耳につき、ぼんやりとした頭が醒めていく。そして、今の状況を思い出して飛び起き、窓から頭を出す。玄関先をうかがって、兼二は肝を冷やした。
来ているのは新聞記者だ。こんな日にまで、と兼二は彼らを苦々しく思い、玄関まで降りていくと、喜久子はなにやら丁寧に応対をしていて、記者の方はしきりにメモを取っている。
「姉さん!」
兼二は姉を制し、家の中へ押しやって、戸口の記者に「この辺で勘弁を」といってピシャリと戸を閉めた。
突然のことに呆然とする喜久子に、兼二は言った。
「どうして出たりしたんだよ、新聞記者なんか」
「だって、よっぽどひどいのでない限り、新聞には応えた方がいいのよ」
少し首を傾げて、喜久子は答えた。
そうすれば、紙面を通して伝えられるのだから。言葉が、所作が。面会をしても、手紙を書いても、伝えられなかったことも、伝わるかもしれない。裁判が始まってすぐ、そう気付いてから、今までずっと、そうしてきた。
兼二も、それは知っていた。初めて喜久子が法廷に傍聴に行ったとき、朝早くから並んで待っていたことが、「法廷一番乗り」という見出しでとある新聞の記事になった。それを見つけたことを嬉しそうに話す義兄の声も、覚えている。
そんなことからか、喜久子は礼儀をわきまえた取材には、ずっと丁寧に応じていた。といっても、記者が群がり、逃げ回らなければならないほどの話題性はなかったこともある。しかし、今はもう。
「姉さん、落ち着いてよく考え……」
そこまで言って、兼二は言葉を飲み込んだ。姉が、沈み込むように腰を落とし、廊下の床にぺたんと座り込んだからである。彼はその傍らで、呆然と立ちつくす。
「私が……答えたら、それを見て……」
伝わる。喜んでくれる。
喜久子は、涙の浮いた瞳を、懸命に上に向けていた。涙がこぼれないように。
涙は、こぼれたら負けで、拭っても負け。泣いていると分かってしまうから。泣いていると悟られるのは嫌だ。泣くのは嫌だ、自分が負けた気がするから。
兼二は、そんな姉のこともよく知っていたから、気付かない振りをして、急いでその場を去った。
一人になってから、自分にも涙がこみ上げてくるのを感じた兼二は、沸き上がるままに任せ、部屋の柱を思い切り拳で叩いた。
くやし涙だ。
今更、どうにもならないけれど、くやしくて仕方がなかった。
弁護は、精一杯やったつもりだった。その点での悔いはなかった。検察側の信憑性に欠ける、こじつけめいた証拠は、こちらの確実な反証で突き崩せたと思った。最終弁論だって、完璧とも言えるほど上手くいった。これが公正な裁判だったら、勝てるとさえ思っただろう。そうでなくとも、もしかしたら、最悪の事態は避けられるのではないかと、思っていなかったといえば、嘘になる。裁判が始まる前から、ずっと極刑を覚悟、前提としてやってきて、姉に根拠のない安心や、ぬか喜びをさせないようにと、さんざんそれを言い含めてきていても、それでも、やっぱり思っていたのだ。
満州・中国関係の政治的罪状のみでは、いくらこんな裁判といえども、死刑になど出来まい。そう心の底で思っていた。死刑にするために、とってつけたようにでっち上げられた不慮虐待の罪状も、反証でことごとく粉砕したのだ。だから、判決の日まで、もしかしたら、と思っていたのだ。
ところが、判決文の罪状の中に、突然、戦争犯罪を犯したという新たな情報的事実が挙げられていた。そのことは、それまで法廷で取り上げられたことも、証拠が提出されたことも無いものであった。それが突如加えられ、そしてそれが決定打となったのである。
この判決文の朗読を聞いた瞬間、……その後の、あの一人一人呼び出されて受ける刑の宣告を待つまでもなく、やられた、と思った。覚悟していたし、まさか自分たちの努力で助けられるとも思っていなく、弁護もそんな目的でやっていたのではなかった。
覚悟を決めている、と笑っていた義兄。
これでスカッとした気持ちで死ねるよ、と言った義兄。
面会の際に目にした、あの死を達観したかのような姿は、美しいとさえ感じられた。
だから、受けとめたはずだった。何も悔いることはないのだと。
それから、一ヶ月。
あの義兄なら、逍遙と、立派に最期を遂げたのだろうと、確信できる。
どうして、今になってこんなにくやしいのだろう。
いくら新聞に言葉を載せても、もう読んでくれはしない。
もう、義兄がどこにもいないと思ったら、何か取り返しのつかないような恐ろしさが、黒い塊となって胸を塞ぐ。
いなくなる、失う、亡くすというのはこういうことなのか。
だとしても、こんな失い方は、嫌だった。
「兼二、ありがとう」
そう声をかけた姉の目に、もう涙はなかった。それが余計に、辛かった。