「山」 にまつわる小品集 その弐
「孝史をおなかに宿してからすっかり山から遠ざかっていましたから、何年ぶりになるんでしょう」
すまなかったな、とつぶやいた。
「若いころ、山は逃げないからあせらずに、なんて言われたけれど、山は逃げなくても体力がなくなってきますよね」
徳澤園の案内された部屋『槍の間』からは、前穂高岳の東壁が眺められた。
周辺に広がる芝生には数張のテントがあり、昔日の我が姿を見る思いであった。
翌日、上高地へ戻る途中の明神。
「ねぇ、嘉門次小屋、まだあるらしいのよね。イワナの塩焼きを食べましょうよ」
あの頃は、装備や道具にお金をつぎ込み、交通費を捻出するために食費を切り詰めていた。
イワナの塩焼き食べたいね、と言いながらいつも素通りしていたのである。
生け簀のイワナを眺めていると、肺魚や電気ウナギのことを思い出し、再び三上たちの事が浮かんできた。
彼らのことだからきっと、時々あの洞窟の出口の所へ行き、夜空や草原を見渡しているであろう、その姿を思い描いた。
「そろそろ戻ろうか」
綺麗に身をそぎ落としたイワナの骨を見やって、どっこらしょ、と立ち上がった。
山、川、木々、空、虫や鳥、いろいろな色と音の中でいろいろな生き物と共に、解放された空間の中で生きていけることの幸せを、しみじみと噛み締めた。
そして何よりも、愛する人と共にいることの幸せを。
翌朝、山はうっすらと雪をかぶっていた。
針葉樹の緑色を基調として、白色と紅黄色に染まった山、その上には蒼い空が広がっていた。
2011.7.12
作品名:「山」 にまつわる小品集 その弐 作家名:健忘真実