狼の騎士
第一章「ベレンズへ」【4】
歌が聞こえる。
霧がかかったようにおぼろげな、それでも男の声だとわかる歌。美しい、とは感じない。ただひたすらに暖かく、優しい声。
時折夢で聞くこの歌は、例えるならなんだろうか。そう思った途端、ゼルの意識は急速に目覚めてきた。いつものあの声はあっという間に掻き消え、朝を告げる鳥のさえずりと、男の声がする。叔父さんか、リックが起こしに来たんだろうか。そう思って身をよじると、素足が外気に触れた。
(あれ)
布団から足をはみ出すほど、自分は寝相が悪かっただろうか。不思議に思って両目を開ける。木の天井が見えたが、それはまったく見覚えのないものだった。
「あ……そっか」
一瞬でも、本気でここはどこだろうと不安になった自分が、馬鹿らしく思えた。なんのことはない、ここは宿の一室だ。川で助けたデュレイクという青年と共にメンクにたどり着き、そこで丁寧な貴族に会い、部屋を譲ってもらったのだ。
半身を起こし、大きく背伸びをする。また男の声が聞こえた。廊下ではなく、宿の外で話をしているようだった。
(もしかして、あのリエッタって人かな)
やわらかい風のような金髪も、今ではまるで荒風のように跳ねていた。そんな状態の頭をかきながら、ゼルは身を乗り出して窓から外を覗いた。窓の真ん中にベッドが横たわっているので、さすがにまだ眠っているデュレイをまたいでまで、外の様子を見ようとまでは思わなかったのだ。
デュレイの足元からぐっと首を伸ばすと、馬の背に乗った男が二人、亭主らしき人物と話をしているのが見えた。顔まではわからなかったが、二人の髪の色は、あのリエッタという貴族と、その連れと同じものだった。話はほぼ終わっていたようで、ゼルがあの二人らしい、と思った時には、二頭の馬は颯爽と走り出して行た。ゼル達がこれから向かう方向と同じだったため、やはり彼らもべレンズに行くのだろう。
姿勢を戻してデュレイを見ると、これまた幸せそうに眠りこける顔があった。じっと見つめていたら、笑顔で寝ているのではないかと錯覚してしまいそうである。
(よっぽどいい夢でも見てるんだろうなあ)
息を吐くように苦笑して、ゼルは自分の寝台に腰を下ろし、着替えを始めた。早く起きてしまったため、ついのんびりゆっくり服を替えていたせいか、朝という時間が妙に時が過ぎるのが早いせいもあるのか、大体の身支度を整えた頃に、使用人が部屋の扉を叩いてきた。返事をして戸を開けると、食欲をそそられるような香りが漂ってきた。
「おはようございます。朝食をお持ち致しました」
小さく礼をし、テーブルに置かれた二人分の食事は、昨晩と同様に半透明の覆いがかけられていたが、その芳香は部屋中に広がった。鳥達の声や人のざわめきよりも、この音も立てずに入り込んだ侵入者の存在は、未だ睡眠を貪っていた青年を目覚めさせるのにうってつけだったらしい。使用人が戸を閉めた時、むっくりとデュレイが起き上がった。
「やあ、おはようデュレイ。ちょうどよかった、たった今朝食が来たとこだよ」
机上を軽く整えていたゼルが、寝ぼけ眼のデュレイに呼びかけた。
「あー、おはようゼル。なんかいい匂いがするなあと思って……」
「今言ったじゃないか、朝食が来たとこだよって」
笑いながら、ゼルは覆いを取り去っていた食事を指差した。数度瞬きしてから、ごしごしと目をこすり、また開けられたデュレイの目は、すっかり光を取り戻していた。
「えっ、もうそんな時間になってたのか?」
「まあ、朝食の時間としてはちょっと早い程度かな」
デュレイの枕元によりかかったゼルが答える。
「いつもより寝過ごしちゃったみたいだ。ゼル、先に食べてていいよ。おれもすぐ着替えるから」
うなずいて、ゼルは席についた。やはり川での一件で疲れていたんだろう。背後ではデュレイが着替えているようだったが、ずいぶんとやかましく音を立てている。
「デュレイ、何をそんなに焦ってるんだよ。ゆっくりでいいんだぞ」
椅子の背にひじをかけ、ゼルの振り返った先には、わたわたと服を着込むデュレイがいた。
「いや、待たせちゃって悪いかと思って。よし、とりあえずこれで」
「デュレイ、服。裏返ってるぜ」
「え、あ」
ゼルを見、そして自分の胸に落としたデュレイの顔が、一瞬で朱に染まった。すぐにその服を脱ぎ始めたデュレイには、困ったように微笑しながら食事に戻ったゼルは見えていなかった。
朝食を終えて一時間ほどのちに、二人は宿を出発した。このメンクからならば、速歩で向かえばべレンズにはその日の内に着く。再びのんびりとした景色を見ながらの旅が始まったが、だんだんと家の数は増えてきている。そしてはるか遠くには、巨大な山々の連なりが、その雄姿を見せ始めていた。
「ゼル、あれがウィロウ山脈だ。やっぱりまだ雪をかぶってるな。もうそろそろべレンズが見えてくるよ」
見たことのない山並みに圧倒されながらも、ゼルはデュレイの説明を聞き漏らすことはなかった。右手に広がっていた丘の陰から、一面に広がった緑豊かな農地と共に、ゼルが目指してきた場所が現れた。
そこに広がっていたのは、メンクの比ではない、広大な街並みであった。その一部は頑強そうな城壁で囲まれ、鮮やかな色の屋根が景色を彩っている。まるで蜘蛛の巣か細かい木の根のように、大小の道が街に張り巡らされていた。その中で一際目立つた建造物に、ゼルは引きつけられていた。
べレンズの街が華やかであるなら、それは清楚な美しさを放っていた。見る者に調和と安定感を与える左右対称の造りは、白を基調とした、光り輝いているようにさえ見える壁で築き上げられている。静かに、そして堂々と鎮座するそれは、紛れもなくベレンズを治める王の館であった。中心部にある抜きん出た高さの建物が、きっと国王のいる所なのだろう。
王都を見下ろすようにそびえている山は、さっきの山脈の一部だ。大地を覆う森が山のふもとを囲み、その木々の波は街のすぐ裏まで押し寄せていた。
いつの間にか馬の足をゆるめていたゼルに、デュレイは自分の馬の手綱を引いた。それに気づいたゼルも馬を止めたが、その目は眼下に顕在する王都しか映していなかった。
「すごい……。王都なんだな、ここが」
「そうさ。ここがぼくらの国の首都、べレンズだ。さあ、行こうゼル」
再びデュレイの馬が駆け出す。その蹄の音に、ゼルは呆然とべレンズを見つめる自分に気づいた。デュレイを追うのに拍車をかけ、そのあいだにまた街並みを見る。その瞳は、揺るぎない志気で輝いていた。
門をくぐる前から、にぎやかな人々の声はゼルの思考を奪うばかりだった。すでに馬を降り、デュレイと並んで大通りを歩いていたが、きょろきょろと辺りを見回すゼルは、デュレイに微かに笑われていることには気づいていなかった。
「うわあ、家も大きいのばっかりだ。もしかして全部二階があるのかい?」
「まあ、ほとんどはそうじゃないかな。この辺は商店が多いからね。一階部分が店、二階が住居ってつくりがほとんどだから」
「へえ……。あ、あれがさっき見えた門?」
人の頭の隙間から、城壁が見えてきた。そしてそこには、開け放された門があった。
「そう、べレンズ城下町の入り口だ。でっかいだろ?」