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狼の騎士

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 こっちじゃない? 自然ともう一つの扉へ顔が向く。小さく音を立て、部屋と廊下を隔てる板がこちら側に押されてきたのはその瞬間だった。
 彼女が戻ってきたのか。その予想はしかし、踏み込んできた革の長靴の下敷きとなった。
 ゼルは我が目を疑った。訪れた人間の後ろで、扉が閉められた音もその耳には届いていない。足を一歩下げると、かかとが壁にこすれた。
 別人などではない。暗く濃い青色の外套。長い黒髪。それだけなら似た貴族は多くいるだろう。だがあれだけは偽りようがない。この国でただ一つの、深く輝く緑の石だけは。
 淀みを奥に秘めながらも透き通った金の双眸が、ゆっくりと開いた。
 フェルティアード。どうしてあんたがここにいるんだ。
 鼓動を早める胸を静めたかったのだが、大貴族から気を逸らせたくもなかった。まさかここで何か注意をされたりすることはないだろう。そうわかっていて、彼に敬いの言葉すら使わなくなったゼルでも、なんの連絡もなしにこの男が姿を現すのは心臓に悪かった。
 いや、よく考えろ。ここは陛下にお会いする人が必ず入る部屋だ。ならフェルティアードだって、きっと陛下に用があって来たんだ。陛下がおれのあとに約束を取り付けていただけなんだ。そうとも。待ち時間が重なっただけで。
 しかしそこで、ゼルは待ち合わせの刻限を思い出した。かなり早くに着いたにも関わらず、ゼルはここに通された。それなら、先に用事があるのはフェルティアードではないか? 彼のことだから早すぎず遅すぎず、一定の余裕を持って指定の場所に足を運ぶに違いない。
 長身の躯体が動いた。その歩き方に、少なからず違和感を覚える。注意深く見るのが彼しかいないため、動作がおかしいと感じることができたのだ。そうでなければ気にとめることもないくらい、ごく普通の歩みだった。
 ――あの傷か。自分よりも深いはずなのに、はた目には怪我人に見えない。あの服の下には、今も包帯が巻かれているのだろう。
 フェルティアードは、以前も座った椅子の前で止まった。ゼルとの距離はその分縮まっている。広い背もたれの厄介になる様子はない。ゼルは視線を合わせぬよう、謁見の間の出入り口や窓の外ばかり見ていた。
 こちらから話すことなど何もない。だが、あいさつぐらいはすべきだったろうか。こうも間を置いては、それすらも切り出すのが難しいのだが。
「ル・ウェール」
 悪寒に似た感覚が背筋を走った。それは首にまで達すると、本当は背けたいゼルの心を無視してその瞳に一人の男を映させた。
「陛下なら時間になるまでお出でになられんぞ」
 ゼルは眉をひそめた。
「おれは、陛下がもうお待ちになってるって聞いて来たんだぞ」
 陛下がお越しにならないのなら、どうしてこんな早くに呼ばれたんだ? そうとわかっていながら、この男もなぜわざわざ。
「畏れ多いことだが、陛下に一芝居打っていただいた。おまえを呼び出すためにな」
 一芝居だと? ゼルの中で、国王からの賞賛に対する期待が、一瞬で正反対のものに変貌した。
 そうだ、この男はおれを訴追する手を持っていたじゃないか。フェルティアードという貴族に使った暴言、命令に反しようとした行動。こうしておれと面と向かっているのは、それらを陛下に進言しない代わりに、何かおれに不利な条件でも呑ませようとしているからか? こうなると、そもそも陛下はおれに賛辞をくれる予定などなかったんじゃと思えてくる。
「おれに用があるのはあんただってことか」
「その通りだ」
 こつ、と一歩だけ、フェルティアードが近づく。ゼルは諦めて深く息を吸い、吐き出した。
「いいさ。おれはあんたに、兵にあるまじきことばっかりしてきたからな。あんたに都合のいい取引だろうがベレンズ追放だろうが、断るつもりはないよ」
 馬鹿なことしたもんだな、と叔父の言うのが目に浮かぶ。彼はきっと本気で怒ったりはしない。むしろほっとするだろう。
「……おまえは何か勘違いしているようだな」
 どこか楽しんでいるような、フェルティアードの声色。しかし、その表情は硬く冷たいままだ。
「わたしはおまえに罰を受けさせるために来たのではない。わたしの提案を受け入れるなら、陛下もおまえにお会いになる」
 ゼルは悟られぬ程度に首を傾げた。
「提案?」
「おまえはおまえの望みを成し遂げるために、何らかの後ろ盾がほしいとは思わんか?」
 おれの望みに、後ろ盾? 自分を責めるでも、ここから追い払おうとするでもない男の唐突な発言に、ゼルはついて行けなかった。フェルティアードのほうも、ゼルが理解し切っていないことを汲み取ったらしく、もう一度単語を変えて言い直した。
「わからんようだな。おまえを貴族にしてやると言っているのだ」
 今度こそその意味はわかった。だがそれだけだった。今のは本当に自分に対して言ったことなのか? 何かを言おうとするものの、我が身に降るとは思わなかった申し出に潰され、その隙間から這い出てきた粉々の感情には、言葉を形成する力などなかった。気付けば、開いた口からは言語にすらなっていない音しか流れていない。
「無論、将来的にの話だがな。どれだけの地位までのし上がるかはおまえ次第だ」
 どういうことなのか問いただす間は十分にあった。しかしゼルは何も言い出せず、ただフェルティアードの言流に身を任せてしまっている。
「その手始めとして、おまえをわたしの騎士に迎える。これがわたしなりの礼だ」
 ゼルがようやく反論の余地を見つけたのはその時だった。
「なっ、何言ってるんだ! あんただって知らないような村から来たやつが、突然大貴族の騎士になんかなれるか!」
 何か企んでいるのではないか。あまりに巨大な幸運は、ゼルに疑心しか生じさせなかった。
「それに何回言わせればわかるんだ。おれはあんたが嫌いなんだぞ。いくら最高位だからって、そんなやつのところに行きたいとは思わない」
 権力を欲する者なら、喉から手が出るような賞与だった。たとえそれが恐れられ、冷徹だとされる男の元であってもだ。そんなものは、まばゆい支配階級への道筋がその威光で見えなくしてしまう。
 だがゼルは違っていた。付き従う相手が何よりも重要だった。自分を権力者として形成していくのは、権力そのものではない。自分に力を添えてくれる人々なのだ。
 そんな彼は、男の目にどう映ったのだろう。その唇が薄く割れ、僅かに歯が覗く。まるで、獣の牙が見えるのではないかと思うような笑みだった。
「ますます気に入った」
 独り言のように細かったが、雨も風もない静かな部屋では、それはたやすく耳に流れ込んできた。大貴族の目にとまるなど喜ばしいことなのに、背後に寒気を感じる。
「言っておくが、今おまえを騎士にできるのはわたしだけだ。次にいつ、手柄を立てられるほどの戦が起こるかは誰にもわからん。ベレンズとエアルが牽制し合っているこの状況では、残りの兵役期間中に大規模な戦争が始まるのを待つなど、分の悪い博打だと思うがな」
 確かにそうだ。手柄を元に騎士になるのが難しいことは、ゼル自身もわかっていた。それを考えれば、フェルティアードを助けたという成果は捨てがたい。
作品名:狼の騎士 作家名:透水