狼の騎士
あの大貴族を危機から免れさせた。それについて、国王自らが褒美の言葉を送りたいというのだ。戦地に赴き、ただ単に、兵の指揮者が失われてはならない、という勝手な意気込みからとった行動が、こんな結果を生むなんて。
「そんなとこだろうと思ってたんだよ。おめでとう、ゼル。陛下は明後日の十時に来てほしいそうだよ」
文字がすぐ目に入るよう向きを変え、エリオは文書を机に滑らせながら返してきた。読むのをやめた数行目を見ると、確かにエリオが言ったことを堅苦しくした内容が、つらつらと記されている。指定された日時も、当然だが明後日の十時と書かれていて、場所は王宮の正面玄関内になっていた。
ぽかんと口を開けたままのゼルに、エリオは唇を尖らせて言う。
「いつまでたっても、ゼルが陛下にお褒めの言葉を頂いたって全然聞かないから、おかしいと思ってたぐらいなのに。大体ゼルは貴族になるって言う割には、ちょっと欲がなさ過ぎるんじゃないか?」
「いや、おれはその、もっとでかいことをしないといけないと思ってて。敵をたくさん倒して手柄を立てるとかさ」
「立てたじゃないか」
何を今さら、と言わんばかりにまばたきするエリオに、ゼルは自分が想像していた手柄というものを語った。
「でも、おれはたった一人も敵を殺してないんだぞ。闘いはしたけど、エアル兵を全滅させたのはフェルティアード卿だ」
「確かにそうだけどさ」
青色の瞳が閉じられたように見えたのは、彼が組んだ指を見下ろしたためだった。ゼルと同じ、それよりもやや明るく、デュレイよりはきらめきのない金色の短髪が、エリオの挙動でかすかに揺れた。
「フェルティアード卿があれ以上の傷を受けずに闘えたのは、きみのおかげさ。きみが思う“手柄”はないかもしれないけど、あの方へのお力添えが、邪魔にならずにあの方のためになったんだ。陛下のお目にとまるのは当然の成り行きだよ」
またにっこりと笑う。なるほど、そういう見方もあるか。
とにもかくにも、国王陛下と再会することを断る理由などない。自分はどうであれ、陛下は一連の行動を、賞賛に値するものと見られているのだから。
治療のためふせっているとしても、顔を出さないのは元からなので変化はないのだが、エリオからフェルティアードのいない稽古の様子を聞いて、そこから全く関係のない、よく行く店や食事どころの話に移って盛り上がる頃には、日もすっかり赤く変わっていた。
「直接つながらないにしても、今回のことがきみの夢の足掛けになるといいね」
帰り際、エリオはそんなことを言ってくれた。そうだ、貴族よりも先に、おれはベレンズの王に認められるんだ。フェルティアードだって、あの時は押し黙っていたけど謝礼の一つくらい言ってくるだろう。むしろそれがなかったら、貴族としての品格を疑う。
日差しの照りつける窓を開け、赤みがかった街並みを眺望する。下を見ると、通りを歩いていくエリオの姿があった。
(そういや、デュレイのこと聞くの忘れてたな)
しかし、エリオが自分からデュレイの話題を持ち出さなかったところ、彼も詳しくは知らないのだろう。大体隊も違えば共通の知人もいない。いまだにデュレイが別所にいるなら、医務室に行ったとしても会えずに引き返しているはずだ。収穫のなかったことを、エリオは話す気にはならなかったのかもしれない。
もし。ゼルは絶対にないと自分に言い聞かせながら仮定した。もしデュレイが死んだとなったら、きっと知り合いの関係を問わずに広がってくる。王宮に行ったら、そんな噂を耳にしてしまわないだろうか。でもあのエリオが、すぐにばれるようなことを黙っているだろうか。
(よし、決めた)
明後日は早めに王宮に出向いて、先に医務室に行こう。会えなくても、デュレイの具合だけは知っておきたい。
強い風が吹き込んだ。ゼルを素通りしたそれは、机に置いたままだった紙切れをいともたやすく空中に舞い上がらせてしまう。ゼルは慌ててガラス戸を閉め、窓掛けを両側から引き覆った。
立ち尽くし、頭も据えて、ゼルはぐるりと二つの目だけを巡らせた。さっきも見直した光景だ。変わるはずがない。自分以外誰もいないのに、変化があったら恐ろしいではないか。
二つある扉のうち、ベレンズの紋章がないほうを振り返る。彼女が――ティエナ・セレズといったか――案内してくれたこの部屋に入るのは二度目だ。ただ、一人だけということでずいぶん広く感じてしまう。
現状から言うと、ゼルは医務室を経由してここに来たわけではなかった。
約束の三十分以上前に王宮玄関に来たゼルを待っていたのは、初日にフェルティアードの部屋までの引率をし、彼とデュレイの決闘の立会人になったティエナ・セレズだった。まさか自分を迎えるためにいたとは知らなかったゼルは、会釈をして通り過ぎようとした。そこを彼女は、名前を呼んで止めてきたのだ。
――ジュオール・ゼレセアン。陛下のお呼び出しの件で、あなたを連れてくるよう言い付かっています。ついて来なさい。
彼女はそうはっきり言うと、予定を強制変更されたゼルを置き去りに、さっさと歩き出してしまった。ゼルは早足で彼女に追いつき、時間が早過ぎはしないかと問いかけたのだが、早いに越したことはありません、陛下は既にお待ちです、と言い返すだけだった。
もう待っているというなら、その前に行きたい場所があるとは言い出せなかった。こんなに早くから用意をして、かの国王が自分の到着を待ちわびているとわかれば。
そういうわけで、ゼルは彼女と共にまっすぐここへやって来たのだ。その彼女もゼルを部屋に入れると、自由にくつろいでいてかまいませんと言ったきり、すぐに引き返していってしまった。あの時は一緒に部屋に入って、国王陛下の準備が整うのを報告してくれていたはずだが、今回は勝手が違うのか。
小さめの椅子を引いて、おそるおそる腰を預けた。くつろいでいいとは言われたが、どうもひじ掛けまでついたものには手が出せない。いつあの紋章が割れ、中から誰が出てくるかもわからないのだ。
今度はおれだけだ。隣り合う仲間も、ましてあの大貴族もいない。失礼のないように気をつけないと、せっかくの幸運が台無しだ。
座ってじっとしていることすら耐えられず、ゼルは椅子を離れ外套の裾をはたきながら、王都を見下ろす窓に歩み寄った。控えの間とはいえ、ここも王が利用する部屋だ。下宿からの眺めには遠く及ばない、街もその外側の畑さえも一望できる。難点を挙げるなら、この窓は縦に細長いため、遠方まで見えても横の範囲は非常に狭いものだった。
低いところを雲が流れているのか、ゼルが辿ってきた緩やかな丘と一面の畑には、大小の黒い影が泳いでいた。影が地を走っていくのは、村でも時々目にしていた。それを高いところから見るのは初めてだ。まるで自分が雲の上にいるようだった。
時を忘れるような景色に沈んでいたゼルにとっては、些細な物音も突然背を押されるのと同等の威力を持っていた。
足音だ。それはもう扉の前に迫っていた。ゼルはまず紋章の彫り込まれたほうに目を凝らしたが、厚い両扉はぴったりと閉じ合わされている。