狼の騎士
他の貴族の隊も戦に同行するなら、可能性はあったかもしれない。だが今回はフェルティアードの隊だけで、しかも新兵が直接敵と剣を交える予定はないのだ。手柄を立てようとするにも無理がある。
そのうえ、今は平和な時代だ。そんな世で、騎士に召し抱えられるのは難しいに決まっている。戦争などないのが一番だが、夢を叶えようと思うと、どうにもやりにくいのだった。
ゲルベンスに別れを告げながら、腰に吊った剣を握る。焦ることなんかない。自分にできることを、すべきことをやればいい。そこをほんの少しだけ踏み出して、やれることの範囲を広げられれば。
簡素な戸口から外に出る頃には、雨はほとんどやみかけていた。浮かんでいるのが不思議なくらいに重そうな雲は、青いはずの空を隙間なく埋め尽くし、その色の欠片さえもこぼすまいとしているようだった。
「よお、レイオス」
扉を打つこともなく現れた入室者に、フェルティアードはいささかも顔をしかめなかった。わかっていたのだろう。彼にとって、そんなことをせずに会いに来る人物は一人しかいないのだ。
彼が後ろ手に戸を閉めるあいだも、フェルティアードは書類に目を走らせ、ペンを持った手を動かす。雨は上がったようで、すっかり静かになった。だが晴れたわけではない。未だ室内の明かりは必要だった。
「何か用か」
これ見よがしに、一人用の椅子へとどっかりと腰を落とした男に、無機質な動作で横目を使う。それを見返すのは、温かみさえ感じさせる鋼色の瞳だ。
「あるから来たんだろ。ひよっ子相手に決闘たあ、おまえらしくもない。どうしちまったんだ、ん?」
フェルティアードは答えない。唇は普段より緩んでいるものの、他人に比べても機嫌を悪くしている様子と大差はなかった。
「おまえなら相手にもしないだろうに。ああ、それ以前に決闘しようとするやつがいなかったからな」
「ヘリン」
笑顔になろうとした中途半端な表情で、ゲルベンスは固まった。どこか切羽詰ったような、焦りともとれる語気を、その一言が孕んでいたのだ。それは小さく、長年付き合ってきた彼でさえ、もう一度確認したくなってしまうぐらいだった。
なんだ、と静かに聞き返す。フェルティアードの遠くを見るように注がれる視線の先には、机しかない。その黒髪が垂れる横顔は、他人と接している時のものより堅さが薄れている。
これがおれの知っているフェルティアードという男だと、ゲルベンスは思う。おれだけじゃない。屋敷の使用人にも領民にも、こいつは慕われている。厳しい顔を見せるのは必要な時だけだ。それが王宮に来ると、誰も彼もが敵だと言うように、人を寄せつけまいとあんな風になる。
仕方がないと言えばそれまでだった。ただそのせいで、こいつは自分が求める人間まで弾いてはいないかと、いらぬ心配をしてしまう。
「あの男……フロヴァンスだが、容態を聞いていないか」
――まさかと思ったことを聞いてくるな。ゲルベンスには意外だったが、予測していなかったわけではない。こいつが変わっていなければ、きっとそう聞いてくると確信していた。
「ちらっと小耳に挟んだ程度だが、あまりいいとは言えないようだぜ」
そうか、という平坦な相づちに、ゲルベンスは女でもできたかと詰め寄るように、にやつきながら身を乗り出す。
「やっぱり心配か。愛想が尽きたとか何とか言って、結局おまえは諦めきれてないじゃないか」
「……おれは」
「それ以上言うな。思いのほか悪化してるようだから、気になっただけだってんだろ? それで十分だ。死んでも構わんなんて言い出してたら大問題だったがな」
「誰がそこまで言うものか」
笑い声を無理に噛み殺したような返答を、ゲルベンスはもどかしく感じた。まったく、そこは我慢するところじゃないだろう。呆れてため息まで出そうだ。
まあ、ちょうど話が区切れたか。今日おれが来たのは、フロヴァンスとやらのことを話すためじゃない。出兵に簡単な激励でもしてやる予定だったが、さっきあの子と会ったせいで聞きたいことができた。
「ところでレイオス、おまえゼレセアンをどう思う」
顔を上げ、フェルティアードはまじまじとゲルベンスを見つめてきた。彼の口から、その名が出てくるとは思ってもみなかったのだろう。
「あれと話したのか」
“あれ”ときたか。どう思ってるかなんて、答えを聞く前にわかっちまったようなもんだな。
ゲルベンスは足を組み、
「おまえと言い合ったらしいが、どんな流れになったんだ?」
「本人から聞かなかったのか」
「ああ、詳細はな」
何食わぬ顔で嘘をつく。あのゼレセアンという青年を信用していないわけではなかった。だが、もし話が食い違っていたら。
レイオスがおれに対し、話を誇大にすることはまずない。したところで有利になることなどないし、何よりこいつは偽ることを嫌う。ただ、ゼレセアンのことはずいぶんと睨んでいるようだから、多少の誇張はあるかもしれないな。
ゲルベンスは、理解しやすくまとめられた事の発端から終結までを、ゼルの話と照らし合わせながら頷いてやる。お互い微妙な読み取り方の違いはあったようだが、大体の意味は同じだ。ゼルは、自分もフェルティアードのことも、大げさに表現してはいなかった。
無駄な心配をしていたか。おれの質問に、あんなにはっきりと答えた青年に。
「大したもんじゃないか、おまえを相手にして弱腰にならないなんて」
せっかく褒めてやっても、本人はここにはいないのだが。しかしフェルティアードはそれさえも好ましくなかったらしい。ひどく顔をしかめてぼやく。
「何をそんなに嬉しそうにしているのだ。ああいう輩に限って、どうせ口だけだ。自分の言ったこともすぐに忘れて、矛盾した行動をとる」
ひねくれちまったな。ゲルベンスは椅子に背を預けた。別に仕事にまでこんな姿勢ってわけじゃないからいいんだが、これじゃ不安に思われて当然だ。でもそれについて何故かと問いただしてきたのは、あの子が初めてだった。
彼はこの男を恐れるあまり、他の同期が進言を遠慮し、ますます双方の溝が深くなってしまうことを憂慮しているのでは。多分、彼は自覚などないだろう。だがそんな意思がなければ、フェルティアードという貴族に、たった一人でこんなに突っ込んだりしない。でも、おまえにはもうわからないんだな。
「やれやれ。見込みのある青年だと踏んでたんだが、そう言うんじゃどうしようもないな」
反動をつけて椅子から立ち上がる。あんなのに目をつけていたのかと、フェルティアードは呆れたような声色だ。
「おまえと違って、おれは見る目があるんでな」
苦いものを無理に飲み込んでいるような表情は、機嫌を損ねたのか怒りに触れたのか、この男とさして会うことのない者だったらどちらなのか見当もつかなかったろう。だがゲルベンスには手に取るようにわかる。ふてくされた子どもに見えるぞ、とまで言ったらさすがに黙ってはいないだろうが、少なくともそのぐらい細かく心情を見破るぐらいは造作もなかった。
「お人よしだぞ、おまえ」
「いいや。おれはあの子を買ってるんだ」