狼の騎士
「おれの見たところでは、きみはフェルティアードと一戦交えたようだな。なんて言ってやったんだ?」
できるだけゲルベンスに対し正面を向こうと、やや斜めに構えていたゼルの体が、一瞬びくりと震える。棘のある口調ではなかった。むしろ、ゼルの返答を楽しみにしているようでもある。さっきのエリオとの会話、どこから聞かれていたのか。
「そんな、一戦だなんて。私はただ、勝手な思い込みをされたくなかっただけです」
つい数分前の出来事を、ゼルは事細かにゲルベンスに話した。自分とフェルティアードの応酬をなぞっていると、また言い合いをしている気分になってくる。その度に、今話し相手になっているのは大貴族の一人なのだと言い聞かせた。
ゲルベンス卿はなんと言ってくるのだろう。彼の反応が気になって、話し終えたら一度口を閉じようと思っていた。しかし、浮かんでくる謎は自分だけでは解決などできなく、口は止まらずに疑問を吐き出した。
「ゲルベンス卿、なぜあの人はぼく達を信じてくれないのですか? ぼく達が何をしても、いつも突き放してくるようで」
彼なら知っている。次第に暗さを増す空に負けじと、夕日色の髪が映える大貴族。一つしか違わない階位だと言っても、あのフェルティアードに親しげに呼びかける彼なら。
わけを知りたい。だが、踏み入り過ぎだろうか。兵になったばかりの自分が、大貴族の性格にまで首を突っ込むのは、やはり失礼か。
いや、とゼルはその遠慮を取り払う。国の兵として精一杯奉仕するのに、彼の態度は障害になっている。これでは、能力を出し惜しみする人まで出るかもしれないじゃないか。敬意が恐れになっては、元も子もない。
ゲルベンスは問われても、ゼルから目を離さなかった。その顔には、もうからかうような色はない。かと言って初対面時の厳しさが表れていたわけでもなかったが、ゼルにとっては冷や汗ものだ。
「……あいつはな」
曇り空とよく似た、しかし稲妻の如き閃きを纏った瞳が部屋の中ほどに泳いだので、ゼルは内心安堵した。同時に呟かれた話の始まりに、すぐさま耳を傾ける。
「根っからの嫌なやつじゃないんだ。そうせざるを得なくなった、ってとこだろうな。きみ達に冷たくあたり、信頼もしなければ期待もしない。いや、したくてもできないんだろうな」
「……? どういうことですか?」
核心を突くかと思われた話題は、ゼルに首をひねらせる程度にはぐらかされていた。あの愛想の欠片もないそぶりは、本当の彼のものではないというのか。
ゲルベンスが手をほどき、背もたれに寄りかかる。そして困ったように眉を下げ、
「すまん、あんまり話すとあいつに怒られるんだ。怒らせると怖いのは変わりないな」
フェルティアードの本心に関わることは、終わりにしたいようだった。
「とりあえず、きみ達を嫌ってるわけじゃないんだ。それだけはわかってくれ」
彼は一言も言わないが、フェルティアードと非常に親しい仲なのだろう。その彼にここまで言われれば、否とは答えられない。承諾する声と頷きは小さかったが、ゲルベンスにはそれで十分だったらしい。紙に水が染み込んでいくように、柔和な笑みが差し始めていた。
「しかし、あいつに食って掛かる子が出てくるとは驚きだ。大抵の奴はびびって、事を荒立てないで引っ込んじまうばっかりだったのに」
今度は頭を支えるように手を組み合わせ、すっかりくつろいだ状態のゲルベンスは、さも他愛のない世間話のように話を振る。挑発されて乗ってしまう馬鹿者と見られているのか、常だった流れを壊した者として注目されているのか。
ゼルは前者のほうだと信じていた。耐えていれば、険悪な雰囲気にもならなかったし、今まで以上にフェルティアードとの関係を悪化させもしなかった。でも、どうしても我慢できなかったんだ。自分の欲だけに忠実な男と思われていたことも、デュレイに深手を負わせたことも。
「ゲルベンス卿、ぼくはつい頭にきてしまっただけなんです。彼が、ぼくなんか遠く及ばない大貴族だってことも忘れて」
「……後悔してるのか?」
ゲルベンスの声から、明るさが消えた。所業を振り返っただけなのに、どうしてこの人は残念そうにおれを見るんだろう。まるで、おれが彼にとって期待外れなことを言ってしまったみたいに。
「ぼくは……」
悔いているか? 後先考えず、偽りのない己をさらけ出したことを。フェルティアードにとって、絶対に気に食わないであろう存在になったことを。
おれは嘘をついたわけじゃない。全部本気で言ったことだ。単なる対抗心から言い合いを始めたんだったら、悔やんでいたかもしれない。でも実際はそうじゃなかった。彼がどう思おうと、おれは自分の考えを曲げるつもりはない。
「後悔はしていません。後悔するほど責任を持たずに発言した覚えはありませんから」
そう断言すると、ゲルベンスは嬉しそうに、
「そうか。だが怖くはないのか? あいつは敵に回すと恐ろしいぞ」
くつくつと笑い出しまでする。敵だなんて、この人はあり得ない例を引っ張り出してくるんだな。想像もできず、ゼルもつられて笑ってしまう。
「怖くないとは言い切れません。でも、怯えていたくもない。そうしたいと思わないし、何より彼に怯えを見せたくないんです」
強がりではない。おれは本当の自分を隠して、何事もないように演じるのが苦手なんだ。
「なるほど、きみは強い男だな。あのフェルティアードと対等に渡り合おうとするなんて」
上司である貴族と、部下となる兵士としてあるべき姿を対等だと言ってるのだろうか。もしそうなら、フェルティアードはよほど怖がられていたんだな。
強いな、と言われて浮かれそうになったが、いくら自分によくしてくれるゲルベンス卿でも、これは身に余るお世辞だ。持ち上げてもらってもなんにも出やしないのに。
雨音に混じって、よく通る硬い音が二度鳴った。窓から聞こえたものではない。反対側だ。ゼルがそちらに首を向けた時には、ゲルベンスが「入っていいぞ」と声を張り上げている。空気まで震わすような響きに気圧されたように、そろそろと扉が開かれた。
二振りの剣に布を抱え、辺りを見回す青い瞳は落ち着きがない。だが、確かにそれはエリオだ。入るようにとまた呼ばれ、彼はやっと廊下と部屋の狭間から抜け出してきた。
棒立ちのエリオを二人で迎え、ゼルは自分の剣と外套を受け取った。ゲルベンスは一人、小雨になりつつある曇天に文句を垂れ流す。
「まだ降ってるのか。少しは弱くなったみたいだが。傘貸すか?」
「えっ、いえ、やみそうでしたら大丈夫です」
舌を噛みそうになりながら断ると、まあ一つしかないからな、と偉丈夫はからからと一笑した。本当に、彼のところで兵として働く同期がうらやましい。
彼の、フェルティアードの下にいて、騎士になることなどできるんだろうか。普通に考えれば、地位の高い貴族に教えられるというだけで誉れ高いことだ。よくない噂なんて、その階級があればないに等しい。
騎士は、その働きぶりから貴族が選ぶのが常だ。よって師になっている貴族が引き抜く場合が多い。しかし、今のままではまず望めないことだ。ゼルは良いとは逆の意味で、フェルティアードの目に留まってしまっているのだから。