狼の騎士
結局、敵対国とその国の非正規兵の現状、加えて自分達の予定を一通りなぞっているあいだ、沈黙が破られることはなかった。解散だ、と告げた貴族の背中には、たとえ遅れて聞きたいことができた者があっても問いかけることなどできないような、ある種の拒絶があった。
口々にあいさつをし、青年達が部屋を去る。ゼルはそれについていくふりをして、エリオにあとから行く、と小声で伝えようとした。
「ル・ウェール」
エリオの肩に伸びていた手を、突然空気がわし掴みにしたかのようだった。しかしそうではない証しに、ゼルはすぐさま大貴族のほうを向き、裏返る寸前の声で応答している。数人の新兵がゼルを見たが、彼らの歩みが少し速くなっただけで、それ以外の反応はなかった。
「おまえは残れ。話がある」
そう言ったフェルティアードは、にび色の木々と空を映す窓を背に、腰を下ろしていた。足音が徐々に減っていく。扉が閉まるのを最後に、部屋から物音が消えた。雨が葉を打ち、ガラスを伝っていく。
机上の整理を始めたフェルティアードの口がいつ開くのかと、ゼルは気が気でなかった。決闘の話をしたかったのだが、向こうがおれに話があるなら、まずそれを聞かなければ。
それにしても、話があるならさっさと言ってくれ。なんで自分から言っといて、書類の片付けなんかやってるんだよ。
整えられた紙束の上に、フェルティアードの手が乗った。
「さて、ル・ウェール」
顔を上げた大貴族と視線が合う。いよいよか。注意を受けるようなことをしたかどうかで言ったら、残念ながら心当たりはある。あり過ぎるくらいだ。国王陛下に頭を下げなかったのはおれだけだし、不可抗力とはいえ伝言を届けられなかったし。
「おまえはデュレイク・フロヴァンスが怪我をしたことを知っているな」
意外にも、フェルティアードが口にしたのはデュレイの名だった。それにどう聞いても、デュレイはゼルの友人であることを前提とした語調だ。
取り乱さなかったゼルにフェルティアードは、彼がその事実を知っていると判断したようだ。そのまま言葉を続ける。
「その原因も……聞いただろう」
手元の明かりの比ではない、冷たさを感じる目が細められる。
「はい。決闘で負った怪我と聞きました」
「決闘の相手の名も聞いたか」
何だ。何がしたいんだ、この男は。明らかに、おれがことの詳細を知ってると踏んでる。
「フェルティアード卿だと、聞き及びましたが」
ともすれば低く沈んだ声になりそうなところを、ゼルはいつもと変わらぬ調子に見せようとしていた。しかしフェルティアードは見透かしたように、唇の端を機用に片方だけ上げて見せる。
「わたしが憎いか」
何を考えてるんだ、本当に。おれに“憎い”と言わせて、何かさせるつもりなのか。もしそうなら、簡単に乗ってはやらないぞ。
「私はフロヴァンス本人と話したわけではありません。ですので、怪我をしたという事実以外は、真実かどうかわかりかねます」
そうだ、おれが聞いたのはただの噂なんだ。根も葉もないし、誰かが余計な一言を付け加えたものかもしれない。本人がそうだと言わない限り――
「真実だ。わたしがフロヴァンスと闘い、彼に傷を負わせた」
なぜ。目を見開いたゼルが、間髪入れずに叫びたくなったのはその一言だけだった。だがフェルティアードの発言と重なるように背後の扉が叩かれたので、ゼルの注意はそちらに向いていた。
入れ、と促され、入室してきたのはゼル達を案内したあの女性だった。同じ色のドレスに、短い黒髪。
「お呼びでしょうか、フェルティアード卿」
人一人分の間を取って、女性はゼルの隣で止まった。
「ル・ウェール、彼女が決闘の立会人だ」
女性はゼルを見ると、
「ティエナ・セレズと申します」
小さく頭を下げたので、ゼルも慌ててそれに倣った。
「ジュオール・ゼレセアン。あなたには真に残念ですが、フロヴァンスとフェルティアード卿が決闘をしたということに、嘘偽りはありません。わたしがその全てを見届けたのです」
一息置いて、ティエナは進めた。
「わたしが信じられないようでしたら、国王陛下にもお尋ねになってごらんなさい。わたしが、治療のため陛下にお会いできなかったフロヴァンスの代わりに、てん末をお伝えしましたから」
「そんな……」
例えるなら呼吸をするように自然に、ゼルはそう漏らしていた。ティエナは別の用事があるらしく、引き下がって行った。彼女がいなくなっても、ゼルはフェルティアードが声をかけるまで、横を向いたままだった。
「おまえはわたしに聞きたいことがあるのだろう」
デュレイがフェルティアードと決闘したのなら、ゼルが知りたいのは一つだけだった。向きを正すと、ひじをついてこちらを窺う男がいた。
「では、教えていただけますか。なぜ決闘をされたのです。何が原因で、フロヴァンスが傷を受けるようなことになったのですか」
デュレイが、フェルティアード卿の気に障るようなことでも言ったのか。まずそう思ったが、デュレイは彼のことを怖がっていた。そんなデュレイが、自分から墓穴を掘るようなことなんかしない。では逆に、フェルティアード卿がデュレイを怒らせたのか? でも、そんなことができるほど、彼はデュレイに関して情報を持っていないはずだ。
「わたしがこれから話すことは、すべて真実だ。ねじ曲げはせん。まず、直接の原因はわたしだ」
ゼルは凍った。血の気が引くとはこういうことか。もし手を出したのがフェルティアード卿だったら、怒りを爆発させてしまうと思っていたのに、いざ聞くとそれが信じられないでいる。
「では、卿がフロヴァンスに決闘を……」
「いいや、決闘を望んだのはフロヴァンスだ」
わずかにしかめた眉を、フェルティアードは見逃さなかったようだ。
どういうことですか、とさらに問いかけようとしたゼルに口を開かせず、彼は一部始終を語った。自分がフロヴァンスを怒らせるような発言をしたこと、そのせいでフロヴァンスが、立会人すら拒んで決闘を申し込んできたこと、その結果、負けた彼はその証しを残すため、自ら腕を差し出したと。
ゼルは、フェルティアードが自分を、出世欲に染まったやつだと思われていたと知っても動じなかった。ただ、そのために卑怯な行動までとるような真似はしない、と固く心に決めていたので、その点だけは反論したかったのだが、今はそれどころではない。
デュレイが傷を負ったのはわかる。でも、面会もできないぐらいにひどい刀傷をつけなくてもいいじゃないか。そのうえ、デュレイは手術も受けなきゃならないようだった。
たかが新兵の分際で、自分に盾突くようなことを言ったからって、そこまでやらなきゃいけなかったのか? もしかしたら、今まで通り剣を持てなくなるかもしれないのに。
「答えを聞いていなかったな、ル・ウェール。わたしを恨んでいるか」
そんなこと、あんたなら聞かなくてもわかってるくせに。だがゼルは肯定せず、
「いいえ、滅相もございません。卿のおっしゃったことが大元だとしても、結果として怪我をすることになったのは、フロヴァンスの失言失態があったからでしょう」