狼の騎士
第四章「激情の闘士」【3】
今ほどゼルが人目を気にしない時はなかっただろう。気にする暇すらないのだ。床を駆ける靴音には遠慮などない。
右手に廊下が現れたのを見て、ゼルは壁に手をつきながらやっと走るのをやめた。思いのほか全速力で走っていたらしい。呼吸がかなり速くなっている。もし話を聞いたのが王宮へ着いたばかりの時だったら、ばたばたと騒がしい外套にまで気を配らなきゃならなかった。
喉が焼け付くようで、すぐにでも水を流し込みたい気分だ。でもそんな悠長なことは言ってられない。唾を飲み込んで、ゼルは通路を曲がった。ここまで来れば目的地はすぐそこだ。震える足は、もう早足程度にしか動いてくれなかった。
「ここか……」
案の定、医務室の入り口を前にして出した声は、ほとんど音を伴っていなかった。咳払いをしてから、拳で強めに扉を叩く。
中からの返事を待っていると、ばたばたと細かい、叩きつけるような音がちらついた。ゼルはすぐその原因を理解した。雨だ。昼間だというのに黒く沈んだ空。そこから落ちてくる雨粒が、ゼルが立ち尽くしている廊下の窓を鳴らしているのだ。この時期の雨はありがたいものだとわかっていても、今の彼にとっては気分を滅入らせるばかりだった。
「どうしました?」
ゼルを迎えたのは初老の男だった。銀にも見える短い白髪に、眼鏡をかけた医師らしい彼は、息切れしているゼルを見て小さな目を丸くした。
「あの、こちらにデュレイク・フロヴァンスがいると聞いたのですが」
一息にまくしたて、少しむせてしまった。心配そうにゼルの肩に手を置いた男は、ゼルが落ち着いて、彼と再び視線を合わせてからそっと話し始めた。
「きみは、もしかしてジュオール・ゼレセアンかな?」
「はい」
男が名を知っていることに、ゼルはさして驚かなかった。きっと、こうやって彼が訪ねてくるのを見越して、デュレイが話していたに違いない。
「彼を見舞いに来てくれたのかい?」
それ以外に何があるというのだろう。友が怪我を負ったと聞いてから休憩の時間に入るまで、こんなに時が流れるのが遅いと思ったことはなかった。しかも、その怪我の原因が決闘で、相手があのフェルティアード卿だなんて。
今すぐ会えるかどうか聞くと、彼は表情を曇らせた。
「わざわざ来てくれたところ申し訳ないんだが、彼との面会はできないんだ」
会えない? 決闘では、負けた側は証拠として傷を受ける。デュレイがここに運ばれたのも、彼が負けてしまったからだ。でも、面会もできないぐらい、ひどい傷を負わせられるなんてことはありえない。
「そんなに深い怪我なんですか?」
「いや、そういうわけではないんだがね……。詳しくは言えないけど、彼の治療はもう少し長引きそうなんだ」
彼はそう言葉を濁した。あまり多くを語れない状況なのだろうが、それはゼルをさらに不安にさせた。深手でないのなら、なぜ話もできないのだろう。まさか、怪我が悪化してしまったのか? そうであるなら、普通より時間がかかるのもわかる。
男が立ちはだかる向こうにデュレイがいるのに、言葉も交わせない。しかし、彼が面会もできないほどの痛みに耐えているかと思うと、押しのけてまで医務室に飛び込む気にはなれなかった。
「そうですか。では、あとどのくらい経ったら会えますか?」
男が口にしたのは、ちょうどゼルが戦地から帰ってくる辺りの日にちだった。もしかすると、会える日すら目星がつかないと言われるかもしれない、と想像していたので、具体的に教えてもらったのには安心した。予定通り帰還するまでに、良くなっていることを祈るばかりだ。
「先生、患者のフロヴァンスのことなのですが」
医務室の奥からの声に、男が後ろを振り返った。デュレイについての話があるようだ。
これ以上、用のない自分がいても仕方ない。ゼルは、彼が教えてくれた日が近づいたらまた来ますと言い残し、立ち去ろうとした。だが、男が静かに閉じようとしていた扉のあいだからこぼれてきた言葉を、ゼルは拾ってしまっていた。
かすかで、ほとんど不確かな音の羅列。しかし、これは絶対に言っていた、と確信の持てるものが、数個だけあった。
彼。器具。そして、手術。
帰ろうとしていた足が止まり、耳をそばだててしまう。だがその時には、すでに扉が閉まっていた。声どころか、物音すら聞こえない。
どういうことだ? あの一連の言葉を発したのは、デュレイの姓を言っていた人だった。それは間違いない。その人が彼、と言うのだから、それはきっとデュレイを指している。器具は治療に使うものだろう。じゃあ、最後の手術は?
あの流れから察するに、今のデュレイは手術が必要な容態だということだ。たかが決闘の傷ってわけじゃなかったのか。でも、あの医者は深手ではないと言っていた。じゃあやっぱり、傷が悪くなったのか。
やっと歩き出しながら、ゼルはフェルティアードを思い浮かべた。どちらにしろ、彼がデュレイを傷つけなければこうなることはなかった。それにその行為は、決闘においては必須ではなかったはずだ。フェルティアードは一方的にデュレイに斬りつけたのではないか。そんな考えに行き着くと、ゼルはすぐにでもフェルティアードのもとへ話をつけに行きたくなった。
いや、そういえば今日は、稽古のあとに彼から話を受けるんだった。新兵が戦地に行く日も近い。多分そのことについての説明でもするんだろう。
大体、今行ったとしても、手ぶらで戻ってくることになるのはわかってるじゃないか。それなら、その説明を聞いたあとのほうが確実だ。
デュレイに会えなければ、その相手であったフェルティアードに聞くしかない。一体何が原因で、決闘などすることになったのか。彼の都合のいいように歪曲される可能性もあったが、当事者は彼しかいないのだ。
雨は激しさを増していく。ガラスを叩く水音は、徒歩で廊下を戻るゼルの耳を、いつまでも追いかけていた。
横にまっすぐ並んだ新兵達と、彼らに話をするジルデリオンの大貴族。あの日との違いといえば、案内の女性がいなく、巨大な一枚窓が雨に濡れ、透けて見える景色が灰色であること、その暗澹たる天候のせいで薄暗い室内を、棚や机の上にある燭台が照らしている程度だ。ゼル達は稽古が終わった直後で、対する貴族も改まった場に行くこともないらしく、外套に身を包んではいない。
質問はあるか、と相変わらず面白くなさそうな声のフェルティアードに、ゼルは疑問ではなく戦地での行動についてを整理し直していた。
ベレンズ国内に侵攻してきていたエアル兵は、エアルの正規軍ではないらしい。エアルは大々的な戦争を起こす意図はないことと、その少数の兵士に対し、物資供給は一切行っていないこと、そして彼らに二度とエアル国内に足を踏み入れさせないことを伝えてきたという。
エアルの言う通り、この兵たちは現在国境付近の森に潜伏し、完全に孤立状態にあることが確認された。しかしそのまま放置しては、近くの村が襲撃される恐れがある。これを防ぎ、なおかつエアルの暴走兵を迅速に殲滅するために、フェルティアードが率いる隊が選ばれたのだ。
主力部隊は明日ベレンズを出る。それを追うように、明後日にフェルティアードと新兵達が出発する手はずになっている。