狼の騎士
止める暇もなく飛び込んでしまった若い客に櫂をぶつけまいと、その動きをしばし固めてしまったためか、馬を乗せたままの舟は本来の到着予定よりほんの少しだけ遅れてそこへたどり着いた。その頃には、先に助けに向かった旅人を負かすほどの早さで泳いだ青年は、溺れかかっている男の頭を、誰にも渡さないとばかりに抱え込んでいる子どもを、なんとか引きはがして自分の腕に抱いていた。
「先にこの子を!」
舟に振り向きざま、ゼルは子どもを押し付けるように船頭に差し出した。船頭はしっかりと子どもを抱き受け、泣き声を鎮めようともう大丈夫だよ、と優しく言い聞かせた。
その光景を目に映すこともなく、彼はすぐさまもう一人の救いを求める人間に腕を差し伸べた。それに応えようとした手は、しかし救出者の指を力なく撫でただけに留まり、その体ごと闇のような深い青に飲み込まれようとしていた。
何事かを叫ぼうと開かれたゼルの口内に、ざばりと水が流れ込んだ。それは自身のかいた腕が起こした波だったのだが、そんなことを厭う間もなく、彼の頭は水中に潜った。
勢い込んだため、大量の泡がしばし視界を遮ったが、それが晴れるとゼルの両眼はすぐに旅人を捉えた。まるで人形のように僅かばかりの流れに揺られ、しかし確実に沈みつつある体を彼は引き寄せ、しっかりと両腕で抱えると、何度も水を蹴って水面から顔を出した。
飛び込んだ時に身軽になっていたとはいえ、旅人の服はたっぷり水を吸い込んでいたし、彼は意識も失っているらしく、ゼルは自ら重りを背負ったようなものであった。おまけにがっしりとした体躯のようで、小柄な青年には空っぽの舟が近づいてきても、そこに旅人を乗せてやる力が残っているはずもなく、沈まずにいようとするだけで精一杯だった。
「大丈夫か! よし、引き上げてやるからな」
無人の舟を寄せた船頭が、バランスをとりながら旅人の両わきに腕を引っかけ、ゆっくりと舟の中に乗せ入れた。この時ゼルは力を振り絞り、思い切り彼を舟へ押し上げたつもりだったのだが、実際にはさほど持ち上げられてはいなかった。この最後の労力を使い果たし、疲弊しきったゼルの顔を見て取った船頭はすぐさま、へりを掴んだ彼の手首をつかみ、舟へ上げた。
絶えず風をはらんでいるような長髪も今ではしとどに濡れ、雨だれのように水を落とし続けている。倒れこむように座ったゼルは、今まで息をするのを禁じられていたかのように、長い深呼吸を一つした。それが疲れきって陰鬱な気分からではなく、人を助けられたという悦びからきたものだということは、直後に表われた、どこか泣き笑いにも似た、しかし満面の笑みと誰もが言える笑顔が物語っていた。
しかしその目を助けた人物に向けた時、ゼルはそんなのんびりとしている場合ではないことを思い出した。例の旅人はまだ倒れ込んだままである。船頭が呼びかける横に、彼も慌てて腰を上げて駆け寄った。
「ああ、お客さん、お客さんの馬なんですが、あの子どもを親のとこに返してくるって言うんで、ちょっと遅れて来ますが、大丈夫ですか?」
「ええ、構いませんよ。でも大丈夫かな、この人……。しっかり! 聞こえますか?」
ゼルが肩を揺すると、旅人はわずかに声を上げ、咳き込んだ。頭が傾ぎ、水に濡れたせいでなお輝かしい金髪が、日の光を受けきらりと光った。
「よかった! 意識はあるみたいです」
「よし、じゃわたしは舟を岸につけるから、その人を頼みますよ」
船頭はそう青年に言い残し、櫂を手に舟を漕ぎ出した。それでも旅人は舟上にいるあいだ目を覚まさず、船頭が岸に着いたことを知らせると、ゼルは彼を背負って陸に下りた。
旅人がうっすらと目を開けたのは、船頭が広げた大きな布の上に、彼を横たえた時だった。
「気づきましたか?」
日差しを受けた瞳は川よりも深い、しかしゼルの瞳より幾分か青みの強い色をしていたが、眩しかったのか、すぐにまぶたで閉じられてしまった。
再びそろそろと開けられた双眸が自分を映したのを、ゼルは確信した。目の前の状況を把握しきれていないようで、丸くなった目はじっと彼を見つめていた。
「あなた、は……」
「あ、怪我とかはしてないですか? どこか痛めたりとかは」
まだ本調子ではないらしく少し咳き込みながら、旅人が自分で起き上がろうと手足を動かすのを、ゼルは軽く支えてやりながらその身を案じた。
「い、いえ、痛みはどこも。あれ、ここは?」
「川を渡った対岸です。あなたが助けた子どもは無事ですよ。もう一人の船頭さんが家族のところへ送って行ってくれました」
肩に貼りついていた、細く束ねられている髪を後ろへやりながら、旅人は川とその向こう岸を眺めた。ちょうど子ども達と家族がいるところに舟が着けられ、あの声を上げていた女性が助けられた子どもを胸に埋めているところだった。そして船頭と二言三言交わすとこちらを向き、大きく頭を下げた。
「ほら、あれはあなたにですよ。あの子を助けたから」
「よかった、無事だったんだね。……ん? でも確かおれはあの子にしがみつかれてしまって、それでやばいと思って……」
だんだんと川での記憶が戻っているらしく、夢見心地だった顔に渋い表情が浮かんだ。無理やり思い起こそうとしているのか。だがひそめられた眉が元に戻るのに、そう時間はかからなかった。
「そうだ、誰かがおれを支えてくれたんだ。じゃ、きみが」
たった今気づいたかのように、旅人はまだ小さく滴を落とす青年を凝視した。ゼルは、彼が大きな怪我もしていないことに安堵し、笑みを返しただけだ。しかし次の瞬間その微笑は一気に吹き飛ばされ、代わりに残ったのは予想外という杭に引き残された、純粋な驚きだった。
「ありがとう! きみがぼくを助けてくれたのか、本当にありがとう!」
よくそのまま背中から倒れなかったものだと、ゼルは己に感心した。突然旅人が抱きついてきたからである。背に回された腕の力の強さに心の中でほっと息をつき、普段ならふざけ半分でしか聞かなかった感謝の言葉の中に、心のこもった響きを感じ取った。
「いやすまない、ぼくは重たかったろう? 人を助けるにはいいけど、助けられるにはこの上なく不便な体だもんな、ぼくは」
「いや、そんなことは……ちょっとあったけど」
恩人の肩にしっかりと両手を乗せ、やんちゃそうな笑顔で問いただしてきた旅人は、ゼルの答えに気分を害した風など微塵も見せず、逆に待っていたかのように破顔した。村の子ども達によく似た屈託のない、そして豪快さも含んだ笑顔だった。
「そうだよな、重いはずなんだ。それだっていうのに、ぼくを抱えたってんだから大したもんだよ。しかも水の中で! きみは命の恩人だよ」
そう言って、旅人はまたゼルを抱きしめた。ゼルが苦笑しながら彼の背中に伸ばそうとしていた手は、船頭のよく通る声に動きを止めた。
「お客さん! どうもお待たせしました、馬が着きましたよ」
青年が移した視線の先を、やっと恩人を解放した旅人も見つめた。栗色の毛並みの馬を乗せた舟が、そろそろ岸に着こうとしていた。
「きみの……ってことは、きみもどこかへ行く途中なのかい?」
「うん。でもきみが行く場所と同じなんだ」
「ってことは、べレンズに?」
「そう!」