小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

狼の騎士

INDEX|2ページ/59ページ|

次のページ前のページ
 

第一章「ベレンズへ」【1】


 旅立ちには困難が付きまとうものだ、と誰かが言っていたのを聞いたことがあるが、行く手を遮るほどの困難もあるのか。
 澄み切った空には、なんとか目で見える距離のところに少しの雲が浮かぶだけ。やっと暖かくなってきたそよ風が、その真っ白な雲を溶かし込んだようなやわらかい金色の髪と、対照的にくすんだうぐいす色の外套を揺らしていた。馬を下りることも忘れ、光を内に秘めたような碧眼をしばたたかせて、青年――ゼルは、その惨状を目の当たりにしていた。
 彼の眼前に横たわっていたのは川だった。泳いで渡れぬこともないが、その広さは、尋常ならざる労力が必要なのは明らかであった。しかし実際に彼を足止めしていたのは川ではなく、その川を渡るための橋であった。
「これは……よわったな」
 木造でありながら堅固であったはずの長い橋は、無残な有様になっていた。川を渡る道となっていた板は所々に大きな口を開け、その下の水流を容赦なく見せつけている。街道を支えていた何本もの頑丈な柱は、折れかかっているもの、砕けたものばかりに目が行ってしまうほどに崩れていた。経た年月が味方しなかったのもあるだろうが、主たる原因はまた違うものであることは疑いようはなかった。
 もちろん、そんな崩壊寸前の橋を渡る者などいなく、渡らせるわけにいくはずがない。橋の入り口は、固く縛られた縄で閉鎖されていた。おそらく向こう側も同じ状態だろう。
「これじゃ、渡し舟が出てるとこまで行かなきゃならないな」
 同年代と比べると、まだ少年らしさが残る顔をややしかめ、ため息をつく。どの道を行こうかと思案しながら、川向こうに広がる深い森を眺めていた時だった。
 ふと、しばらく蹄の音しか聞かなかった耳に、人の声と水音が届いた。見ると、土手を下った川辺で、数人の子ども達が水遊びをしている。子どもの親とみえる大人もそばにいた。
 しばらく寒い日が続いていたけど、今日は一段と暖かいからな。はしゃぐ彼らに、ゼルは自分を元気に送り出してくれた村の子ども達を重ねていた。
「そちらのお方ー。向こうにご用ですか?」
 眺めていた場所よりもさらに手前、橋のほぼ真下から、その声は聞こえた。覗きこむように見やれば、舟が数隻浮かんでいる。ゼルに呼びかけた男は、ちょうど舟から河川敷に足を踏み下ろしたところだった。
「ええ、でもまさか橋が壊れてしまってるとは。……あの、もしかしてそちらは」
 地に足を降ろして、ゼルは舟の男に声を張り上げた。手綱を引き土手を下りながら、川に揺られる舟に視線を向け、彼は男におそるおそる問いかける。
「ああ、わたしたちゃセドの方で渡し舟を出してるもんです。こないだの大雨の増水に加えて、どでかい流木やらが橋をぶっ壊しちまったって聞いたんでね、ここを通る人が不便だろうってことで、数人こっちへよこされたんですよ」
 長年この仕事に従事しているのだろう。親しみを感じさせる笑顔で、船頭の男は事の次第を話した。ゼルはと言えば、目的の日まで到着できないのでは、とさえ憂慮していたので、彼の話を聞くなりぱっと顔を輝かせた。
「よかった! セドまで行かなくてはと思ってたところだったんです。すぐに出して頂けるんですか?」
「もちろん。今しがた、お客さんと同じ年頃の旅人さんが乗って行ったところなんですよ。ほら」
 川の中腹へと差し出された手の先には、ゆったりと進む一隻の舟があった。舟を漕ぐ男の他に頭がもう一つ、そして馬が、いびつな橋の影が落ちているせいではっきりとではないが、確認することができた。
「さ、どうぞ。橋が直るまでのあいだの渡しなんで、お代はいりませんよ」
 小さく頭を下げ、ゼルは船頭に続いて舟に乗り込んだ。馬もさして暴れることなく、大人しく同乗した。
「お客さんはここを超えて、どこまで行きなさるんで?」
 舟がじりじりと動き出し岸から離れると、船頭が口を開いた。
「そう遠くじゃありませんよ。べレンズまでです」
「ほお! ではさっきの方と同じですな」
 まるで級友を見つけたかのような、嬉しげな口調だった。
「あの人も?」
「ええ。それに格好も似てなさる。とすると……お客さん、別れが惜しかったんじゃありませんか? 何が起きるかわからない二年というのは、中々長いものですよ」
 昔を思い出しているのか、その言葉は年長者らしい落ち着いた語気に変わっていった。
「まあ、惜しくなかったと言えば嘘になりますけど、でもぼくはそれ以上に自分の夢を叶えたいと思って」
「いいねえ、そんな自信満々に夢がある、なんて言う子に会うのは本当に久しぶりだ。で、どんな夢なんですか?」
「ぼくは――」
 青年の返事は、川をつんざいた金切り声に打ち消された。
 声の主は、先ほど彼が目を向けた集団の中にいた、一人の女性だった。その驚愕と悲愴に歪んだ顔を見つめることもなく、ゼルの目はその女の直視する先に向けられる。
 子どもがいた。しかし集団ではなく、一人でである。その上子どもは、あろうことか川のほぼ中間へと流されそうになっていたのだ。
「なんてこった、あんなとこまで行くなんて! あそこは大人だって足が届かないんだぞ」
 にわかに船頭の顔つきが変わった。女性の叫び声に止まっていた腕に、再び力がこもる。幸い川の流れは急ではなかったが、早く助け上げなければ子どもの体力が持たないのは必至だ。ゆっくりと舳先が子どもへ向けられた、その時だった。小さいがはっきりと、何かが水に飛び込む音が響いたのは。
 音がしたのは、水遊びをしていた子どものいる川岸とは反対側からだった。糸に引かれるように、ゼルと彼が乗る船頭の首が回された先には、もう少しで岸に着こうとしていた舟と、そこにたたずむ一頭の馬、そして川を突き進む白い波に「お客さん!」と叫ぶ船頭がいた。
「あれ……もしかして、先に乗ってたっていう人じゃ」
「どうもそうらしい。勇気は買うが、泳いで助けるにゃ危険すぎる。お客さん、ちょいと寄り道してもいいですか」
「もちろんですよ! ぼくも手伝います」
「すいませんねえ。おぉい、デーズ! おまえも馬降ろして来い!」
 馬だけぽつんと舟に残されていた船頭は、この呼びかけに大きく頷くと、対岸に待機していた別の船頭に馬を任せ、舟の向きを変え救出に向かった。そのあいだ間に、勇敢な旅人は溺れていた子どもにたどり着き、その腕に抱えようとしていた。しかし子どもは相当怖かったと見え、差し出された両腕に見向きもせず、覆いかぶさるようにその頭にしがみついてしまった。
「まずい! 今度はあの兄ちゃんが溺れちまうぞ!」
 ゼルの舟と、救出者が第二の被害者になってしまった現場まで、まだかなりの距離があった。船頭だけが乗った舟も向かっては来ているが、子どもにおぶさられて足の着かぬ川で、どれだけ持ちこたえられるのか。焦ったように水をかく櫂が、身を乗り出したゼルの頬に飛沫を散らした。
「……すいません、先に行ってます!」
「え? お、おい兄ちゃん!」
 かなぐり捨てた外套に姿をくらましたように見えたのは、ほんの一時だった。次の瞬間には、青年の身は大きな水柱を立てて、水中に消えていた。
作品名:狼の騎士 作家名:透水