狼の騎士
そうしている内に、デュレイの顔にいつも通りの輝きが戻ってきた。ベレンズに関しての知識は無いに等しいゼルに、そんなことも知らないのか、などということも言わない。むしろ、自分の知っていることが友の役に立っていることが嬉しいらしく、エリオが「着いたよ」と足を止める頃には、ゼルの一つの質問に対し、三つも四つも答えが返ってくる有様になっていた。
「それでな、もう少し歩くとまた大きな館があるんだ。以前はさる貴族の家だったらしいんだけど、今はベレンズ唯一の博物館になっててな」
まだ答えを連ねる彼をなだめて、ゼルが店に着いたことを告げると、デュレイは頭から水を浴びせられたかのようにゼルを見つめ、そして店に向けられたゼルの視線を追うと、一人驚きの声を上げた。
「えっ、もう着いたのか?」
「もうって、だいぶ歩いたと思うぞ。なあエリオ」
「うん。ゼルと話すのに夢中になってたんだね、デュレイは」
エリオとデュレイが知っていて、なおかつゼルを連れて行こうとしていたその店――『ハベラ』は、交差する街道の角にあった。席の大半が屋外にあり、平屋の店の内部にはカウンター席しか見当たらない。
店からせり出した布屋根の影が落ちている席を、エリオは選んだようだ。屋根の範囲外にあるテーブルの真ん中には日傘が通っており、その影は椅子までもすっぽり覆っている。夏の強い日差しや、突然の雨を遮るためなのだろう。今日は雨が降る様子もないし、暑くてたまらないというほどの気温でもないためか、その傘をたたんでもらってお茶を楽しむ客もいた。もうすぐ昼という時間だが、席の数が多いせいもあるのか、混んでいるようには見えなかった。
「さ、どれにする?」
人数分の水を持ってきた店員から、食事や飲み物の名前が記された冊子を受け取り、エリオはそれを開いて丸テーブルの真ん中に置いた。
「おれはいつものこれだな」
「鶏のオーブン焼きか。ぼくも好きだよ」
メニューの一行を指差し、まず選び終わったのはデュレイだ。飲み物も選べるからな、と付け加えて、彼は冊子をゼルに押しやった。まだエリオが決めてないじゃないか、と顔を上げると、エリオは、
「ゼルはここ初めてだもんね。じっくり見て選ぶといいよ。ぼくはもう決まってるから」
と笑顔を返すだけだった。
「あとな、ゼル。ここはパンを好きなだけ食べられるんだ。チーズや木の実が入ってるやつとか、たくさん種類があるんだぜ」
相づちを打ったゼルに、別料金だけどな、と囁いたデュレイに苦笑しながら、ゼルはメニューに目を戻した。
角のよれたページ自体は二枚しかないが、エリオが開いてくれた見開きとその前のページは、すべて食べ物の一覧だった。最後のページには飲み物の種類と、デュレイが言っていたパンの食べ放題についてが書かれていた。
「へえ、魚料理もあるのか」
「そうだよ。種類もたくさんあるんだ、ここは」
「おれはそこまで好きじゃないけど、食べてみたらどうだ?」
ゼルは机上にひじをついて唸った。空腹で仕方ないわけじゃないのに、どの料理名もうまそうに見え、じわりと唾液が口にあふれてくる。デュレイが決めたオーブン焼きというのも気になった。鶏以外にも、羊の肉を使ったものもある。野菜も肉もどっさり入っていそうなスープ、香辛料をまぶしたころもで揚げる魚。目移りしてしょうがない。
ゆっくり選んでいいとは言われたが、そう長く待たせても悪いし、何より自分も早く食べてみたい。ゼルは冊子を睨むと、姿勢を正してある一行を指差した。
「よし、ぼくはこれにする!」
「おっ、セリエのドリアか」
興味深そうに、デュレイが料理名を読み上げる。
「セリエ以外にも、具に魚介類が一杯入ってるんだよ。それじゃゼル、飲み物は?」
料理ばかりに目が行って、飲み物も選べることをすっかり忘れていた。慌ててページをめくり、馴染みのない名前のものは無視し、無難なお茶にすることにした。そんなんでいいのか、と、さももったいなさそうにデュレイが言ったが、これはどんな味がするのかなんて聞いてたら、また時間を食ってしまう。
「いいんだ、早く料理を食べてみたいし」
「決まりだね」
エリオは、ちょうどパンを配りに席を回っていた店員を呼んだ。彼は少々お待ち下さい、と叫ぶと、早足で店内に戻って、バスケットの代わりにペンと紙を持って現れた。
「お願いします。まず、セリエのテザンチーズドリアを。飲み物はキーネで」
――どっちが店員なのかわからないな。エリオの話し方は、さらさらと流れるようだった。この店に慣れているのと、彼の丁寧な態度が偽物でないことがよくわかる。つっかえるなどとは程遠い流暢さで三人分の希望を伝えてから、彼は最後に例のパンも注文した。
ゼルはエリオの頼んだ料理の名に耳を傾けていたが、ずいぶんと長い名前で、全部聞き取ることはできなかった。かろうじて、肉の煮込み料理らしいことだけ判断できただけだった。
注文を取った店員は、店の奥に引っ込んだかと思うと、あのバスケットを抱えてゼル達の席に帰ってきた。真っ白な皿を各々の前に置き、パンの種類を述べ上げる。ゼルはとりあえず、店員が一番最初に言った、小さく切った肉が入っているパンを頼んだ。その後に続いたのがどんな名前だったのか、覚え切れなかったせいもあったが。
パンは食べやすいように、小さく切り分けられていた。皿と一緒に手元に置かれた、濡れた木綿布で軽く手を拭いて、ゼルはまだ温かいパンを取り上げた。
「デュレイ!」
聞き覚えのない声が友の名を呼んだので、ゼルはついその方向を向いていた。客がまばらに座る席の向こう、街道から走ってくる人がいる。
「あれ、ミックじゃないか」
「同じ貴族に教わってるのか?」
「いや、下宿が近くてね。時々会うんだよ。やあ、ミック!」
長く走っていたのか、顔を赤くし息を切らしているミックという青年は、空席にぶつかりながら歩みを緩め、デュレイの前で長い深呼吸を一つした。跳ねの目立つ短い黒髪は、走っていたせいなのか元からなのか、ゼルにはわからなかった。
「よかった。確かきみ、フェルティアード卿のところに友達がいるっていってたよな」
「ああ」
デュレイはミックの目を見たまま答えたが、残りの二人はお互い顔を見合わせていた。ミックの言う“フェルティアード卿のところにいる友達”は目の前にいるのだが、もちろん彼が気付くはずもない。ゼルは、ここで割って入ってもな、と思い、黙って話の続きを聞くことにした。
「その人をつてに、ウィッセルって人に伝えてくれないかな。なんでも、幹部兵のどなたかが、彼に話があるって」
「えっ」
当然、声を上げたのはエリオだった。口にパンを含んでいたせいでくぐもってはいたが。
「きみ、ウィッセルって知ってるの?」
「いや……その、ぼく、なんだ」
「本当か! よかった、すぐ見つかって」
安堵に満ちたミックの顔は、しかしまたすぐに曇ってしまった。デュレイが声をかけると、ミックは困ったようにぼそぼそとしゃべり出した。