狼の騎士
第三章「フェルティアード」【3】
そのきしんだ扉の音は、聞く者に壊れそうだ、といった不安を抱かさせることはなく、逆に重ねてきた歴史を感じさせるようだった。
ゼルはその音に、入る時こそどきりとした。だが今ではエリオが押し開ける様子と、彼に案内された神殿の内部を、振り返ってもう一度見回す余裕があった。
王の間のものと似た造りの柱とは別に、大広間を挟み込むように通った廊下の壁側には、エリオの言っていた彫刻が並んでいた。彫ったものを置いたのではなく、石壁から直に彫り上げたようだ。廊下の先の部屋は神官しか入れないが、名のある彫刻師が作り出したのであろう作品は、すべて見ることができた。
入り口から数歩進んだところから祈りを捧げる祭壇まで、優に三十脚は越える長椅子が整然と置かれている。敷物はなく、祭壇までまっすぐたどり着ける通路が長椅子によって縁取られているのは、神官が行う儀式のためだろう。
そして顔を上げれば、描かれている絵も見えないほどに高い、吹き抜けの天井が広がっていた。あの絵画は、二階部分の窓際に通っている通路に上がれば見えるのかもしれない。
窓は、無色透明のものと多彩な色のガラスから成っていて、そこからは屋外に負けじと、大量の光が取り入れられていた。
それでも、若干暗いのは避けられていなかったようだ。高い位置にあったとはいえ、開ききった扉から真っ直ぐ届いた日差しの直撃は、三人の目を細めさせるにはたやすかった。一緒に流れ込んできた風は、もうすっかり暖かくなっている。
広場に出たゼル達は、並んで門へと歩き出した。ベレンズに着いたあの日、ゼルが神殿と一緒に見たあの門だ。広場の奥にある噴水目当てなのか跳ね回る子ども達や、祈りを捧げに来たらしい年配の人々とすれ違う。今日まで何度かこの敷地前を通ったが、その時より人が多くいるように感じるのは、この天候のせいもあるのだろう。
「今日は一段とあったかいや。な、デュレイ」
手で太陽を遮っていたデュレイを見上げ、ゼルが言った。
「ああ。でもそろそろルストアになるからなあ。ちょっと風も強いし、今度はしばらく雨になりそうだね」
「確かに、今日の風は少し湿気があるね。雨季も近いみたいだ。ところで二人とも、今日はこのあと何か予定はある?」
エリオと自分の休日は同じだ。それに今回のキトルセン大神殿の見学は、自分のためにエリオの好意から決まったものだった。そのために使うつもりだった休暇の日に、ゼルは他の用事など入れるはずがなかった。
「ぼくは何もないよ。それよりもきみだよ、デュレイ。やっとぼくらと休みが合ったんだからな」
本当は二人だけの予定だったのだが、デュレイを誘ってみたのはゼルだった。しかし隊が違うこともあり、なかなか休みの日が重ならなかったのだ。あまりに延びてはエリオに申し訳ないと思い、デュレイのことをエリオに話すと、彼はデュレイも行ける日になるまで待っている、と言ってくれた。おかげで、こうして三人一緒に出かけることができたが、結局あの日からふた月が経とうとしていた。
「なんだよ、何もないから来たんじゃないか」
「本当は用事があるのに、ないふりでもしてるんじゃないかと思ってさ」
むくれたようなデュレイに、ゼルはからかいを込めて返してやった。それを見て、エリオがほっとしたように口を開く。
「よかった。二人にうまい店を教えたくてね」
「へえ、実はぼくもあるんだ」
昼の食事について話し始めたエリオとデュレイが、ゼルは少しうらやましかった。どちらともベレンズに住んでいるわけではないが、自分が住んでいた村に比べたら、距離的に近い場所にある町の出身だ。その分ベレンズに行く機会も多かったのだろう。
叔父はよくベレンズに行っていたが、ゼルはそれについて行くことはなかった。行ってみたいとは思っていたものの、いざ叔父が出かける時になると、やはり村で子ども達と遊んでいたい、という気持ちが強くなってしまうのだ。何度か叔父と一緒に行ってればよかった、と後悔したが、今思っても仕方がない。これから詳しい二人に教わればいいんだ、と気を取り直し、ゼルは二人に割って入った。
「で、どっちのおすすめの店に行くんだい?」
「今日の案内役はぼくだからね。ぼくが知ってる店に連れてくよ」
デュレイはその言葉に気落ちした様子もなく、逆に意気込んだように、
「よし、じゃあ次に休みが同じになったらおれの番だな」
と、ずいぶん張り切っているようだ。
「期待してるぞ、デュレイ」
「まかしとけ」
ゼルの声に偉そうに胸を張った様は、頼られて得意になる子どもそのものだ。だがその顔にさっと影が差した。デュレイの所にだけ雲の影が落ちたのかと、ゼルが空を仰いだぐらいだ。そろそろとデュレイの首が巡り、ゼルの頭越しにエリオの方を向いたところで止まる。その目は、まるでエリオは実は殺人犯だったのだ、とでも聞いたかのように、恐ろしさから震えているように見えた。
「エリオ、きみが知ってるその店って……なんて名前?」
「ん? ハベラってとこだよ」
当然ながら、悪びれた風など一切ない透き通ったエリオの表情は、ゼルには計り知ることのできないほどの衝撃を、デュレイに与えたようだった。大柄な身体が、めまいでも起こしたようにぐらつき、その腕がゼルにぶつかった。ゼルはその様子に目を丸くし、
「おいデュレイ、もしかしてそのハベラって店は」
「おれが行こうとしてたとこと同じじゃないか……」
地面に倒れ込まなかった代わりに、デュレイは片手で目をすっかり覆って呻いた。エリオは、なぜデュレイがそんな反応を見せるのかと不思議に思ったか、彼を覗き込んでいる。
「デュレイ? きみも好きな店なんだろう? その……。ゼル、どうして彼落ち込んでるの?」
店の名前を言っただけなのに、デュレイの気分を損ねたように見えるのだ。エリオが実に真面目な顔つきで聞くので、ゼルはデュレイの落胆ぶりに笑いをこらえることはできなくなった。
「エリオ、きみが気にすることなんかないよ! こいつは自分が案内してやれなくて、がっかりしてるだけなんだから」
「ああ、それでか」
やっと笑顔になったエリオにも、ゼルは笑ってしまった。デュレイがこうなるきっかけを作ってしまった当人ということで、極度に心配したのもわかる。だがデュレイの性格を知っているゼルにとっては、正直なエリオの反応は面白おかしく映ってしまうのだ。
本当は肩でも叩いてやりたかったのだが、背伸びしてもとてもそこまで腕は届かない。仕方なく対象を背中に変え、ゼルにぶつけた腕をさすっていたデュレイを慰めながら、ゼルはエリオに店に案内してくれるよう促した。
普段なら義務である帯剣もない今日は、心なしか足取りも軽くなるようだった。外套も皮手袋も、デュレイに紹介され無事住むことができた下宿に置いてきたのだが、それがなくても汗ばむくらいだ。さっきまで、外より少し涼しい神殿の中にいたというのに。
そんな陽気とは、完全に正反対の空気を漂わせるデュレイを元気付けようと、ゼルは街並みの中で気になったところについて、彼を質問攻めにすることにした。あの建物は宿なのか、それとも人を集めて見せる物でも置いているところなのか。王都にも、自警団のようなものがあるのか。