狼の騎士
青年のぎこちない動きの握手を終えると、国王は順にこちらへやって来る。やはり全員と交わすつもりらしい。
これ以上の失態は犯すまいと、ゼルは早くに皮手袋を外していた。自分の前に国王が立ち、にこやかに手を差し伸べてくる。その微笑が、さっきの笑いの続きのような気がして、ゼルは気を紛らわせるため、不必要なぐらいに王の手を握り締めるところだった。
「フェルティアード」
大貴族の名を呼んだのは、玉座に戻ろうとしていた国王ではなかった。見れば、階段の下部に男がいる。瑠璃色の法衣を着込んだ彼は、目だけを彼に向けていた。
「きみに話がある。彼らを帰したのち、わたしの部屋へ来てもらいたい」
ややしわがれてはいたが、深みのある声の催促に、フェルティアードは短く、だが明瞭に了解の意を伝えた。
顎先だけにある髭が特徴的な、猫背気味なその男は聖職者らしい。しかし一介の聖職者が、国王のすぐそばに、数人の男達に守られて居られるわけがない。ということはあの人は宰相なんだろう。フェルティアードとは違う、心の奥を探られるような目つきに、ゼルは不安に駆られそうになった。
国王が退出の許可を下すと、フェルティアード達は深々とした礼を残し、元来たように王の間を後にした。
「こっ、国王陛下にお会いした!? ごほっ」
「デュレイ、何つっかえてるんだよ、落ち着けって」
席を立って手を伸ばし、ゼルは向かいに座る友の背を叩いてやった。口に入れたばかりの米を、上手にのどに引っかけてしまったようだ。
「あ、ありがと、ゼル。でもすごいなあ、さすがは大貴族だ。新兵全員の代表なんだね」
目元ににじんだ涙をこすって、デュレイはやっと顔を上げた。ゼルもほっとして、腰を下ろして夕食を再開する。メンクの宿と同じように部屋で楽しんでいる食事は、王都ということもあってか品数も豊富だ。
「ぼくもびっくりしたよ。フェルティアード卿と顔合わせしたと思ったら、その次に国王陛下とだなんて。おかげで早速目をつけられたみたいだし」
「うん? 何かあったのか?」
ゼルはデュレイに、フェルティアードの部屋でのやり取り、そして国王と対面した時の一件を、少々恥ずかしかったが事細かに教えた。国王と握手を交わしたことは、またデュレイがむせることになりそうだったので、彼の手が止まるのを見て、思い出したように付け加えた。
聞き終えたデュレイは、予想通り握手の話で、血の気が失せてしまったように見えた。その衝撃で前半の話を忘れたのではないかと思ったゼルは、そっと彼に問いただしてみた。
「デュレイ、大丈夫か? 今のでぼくの話、吹っ飛んでないよな」
「えっ、ああ、大丈夫だ忘れてないよ。いや……すぐには信じられないや。その点では、フェルティアード卿のところじゃなくてよかったと思うね」
「きみがその場にいたら、卒倒してたんじゃないか?」
「ほんとだよ」
苦々しげに笑ってから、デュレイは話を戻した。
「でもさ、顔を覚えられたってことは、いいことをしてもすぐに気付いてもらえるんじゃないか? あの方だって何にでも厳しいわけじゃないだろうし」
「それにしたって、あの言い方はどうかと思ったぜ。こっちのやる気が削がれるじゃないか」
「まあ、そうだけど……」
言葉の矛先が大貴族に向いていることに、デュレイはたじろいでいるようだ。
フェルティアードの話になって、ゼルはふとあることを思い出した。そう言えば、フェルティアード卿は自分のことをル・ウェールと――出身地名で呼んでいたな。
見知った村や町にしか行かなかったゼルにとって、村の名が自分を指すことには違和感があったのだ。上か下のどちらか、あるいはゼル、と親しみを込めて呼ばれることしかなかったのに。
ベレンズでは、遠方から来る人は地名で呼ばれる傾向でもあるんだろうか。ゼルがフェルティアードに村の名で呼ばれたことを教えると、デュレイは、意外そうな顔で答えを返してきた。
「へえ、きみのことそう呼んだのか。地名を呼称にすることはあるけど、一般的には下の名前かな」
「ふうん。なんでおれのこと地名で呼んだりしたんだろ」
「多分、ウェールって名前が珍しかったんじゃないかな」
確かに小さい村だし、名を轟かせるような特産品もない。あの時のフェルティアード卿も、ウェールと聞いて詳細を尋ねてきたんだっけ。
しかし、“ル・ウェール”は“ウェールの者”という意味を持つだけだ。ジュオール・ゼレセアンという一個人ではなく、ただの“その地から来た人間”としか見られていないようで、ゼルとしてはいい気分ではなかった。
「物珍しいからだなんて、こっちとしちゃたまったもんじゃないよ」
呆れて、だらしなく椅子の背にもたれかかる。あくまでぼくの想像だぞ、とデュレイが言ってきたので、わかってるよ、と軽く返した。
「そうだ、ゼル。きみもこれから下宿を探すんだろ?」
この白鳥亭に世話になれるのも、あと数日になっていた。それまでに、これから自分が暮らす場所を探さなくてはならないのだ。
「ああ、そのつもりだよ。でも明日明後日は探す時間ないだろうな。もう王宮に通わなくちゃならないもんね」
「じゃあさ、ぼくが住む予定の下宿屋の人に、空きのある所がないか聞いてみるよ。なるべく早いうちに決まったほうがいいもんな」
それを聞いた瞬間、夕食を楽しむために押さえ込んでいた焦りが、すっと軽くなっていった。ここを出なくてはならない期日になるまで、下宿か新しい宿かを見つけられなかったらどうしようか、と思っていたのだ。ゼルは勢いよく跳ね起き、
「本当か! お願いするよ、デュレイ」
「ああ。うまくいけば、最初の休日までに見つかるかもしれないから、その日になったら教えるよ」
「ありがとう」
生活するための不安の種を消し去ってくれたデュレイに、ゼルは手をつけていなかった揚げ物を、彼の皿に乗せてやった。