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狼の騎士

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 ゼルは、部屋を埋め尽くす人込みに分け入らず、静かに閉じられた扉側の壁に背を預けた。体格に比例して高い身長を持つデュレイは、首を伸ばし気味にして部屋を見回している。爪先立ちしたって見えない景色を彼は見てるんだろうな、と思うと、ゼルはまた自分の小ささを見せ付けられるような思いがした。しかし、騒いだところで成長に変化が現れるわけでもない。悔しがる顔を見せまいと、ゼルはそっと顔を伏せた。
「ん?」
 長靴ばかりが視界を埋めると思っていたゼルの目は、全く異なる物を映した。光を反射するそれは、一見して金属であることがわかった。しかし輝きを発したのは一瞬で、すぐに新兵の影がそこに落ち、そこに物があることすらわからなくなっている。この混みようでは誰も足元など見ないのだろう。いつ床に落ちたのかはわからないが、今まで踏まれずにいたことが奇跡に近い。
 人に話しかけるためであったなら、少し躊躇したかもしれない。しかし相手は無機物で、踏みつけられそうになっても声を上げることなどできないのだ。ゼルはぐいと人の波を掻き分け、わずかにかがんでその金物を取り上げた。すぐさま引き返すと、デュレイと目が合った。突然その場を離れ、しかも同年代とはいえ、今見たばかりの人達の中に入っていったのに驚いたらしい。
「ゼル、どうしたんだい? 誰か知り合いでも?」
「いや、違うんだ。こんなのが落ちてて」
 手を開くと、そこにあったのはペンダントのようだった。一対の翼を模した飾りと、首にかける環の部分は、重さを感じさせるような落ち着いた銀色をしている。
「誰かの落し物かな」
「だと思うな。王宮だって、こんなのを置きっぱなしにするわけないだろうし」
 そう言ってゼルは辺りを見回し、ふと一人の少年に目を止めた。この人だかりの中では、誰かが視線を向けていると、逆に目立ってしまう。じっとこちらを見ているその少年は、ゼルがどんな人間なのかを探っているような様子ではなかった。ただ必死に一点を見つめている。ゼルは、すぐにその少年が自分ではなく、自分の手元を見ていることに気付いた。
 相手は声を上げたのか、一瞬口を開けると、人垣にも構わず一直線に走ってきた。
「すみません! あの、失礼ですがあなたが持ってるのは」
「えっ? ああ、これ」
 半ば閉じていた手を広げ、ゼルは彼にペンダントを見せた。それを確認するなり、少年は目に見えて顔を輝かせ、安堵したようだった。
「よかった。ここに入ってから落としたことに気付いたんで」
「これはあなたのだったんですか」
 はい、と返事した相手を、ありえないはずなのに、自分より年下に見えてしまったのも無理はなかった。ゼルよりわずかばかり背は高いが、短い金髪の下にあるのは、同じ年とは思えないほどの童顔だった。デュレイが粗野だとは言わないが、相手を気遣うような丁寧さがにじみ出ているようである。光の粒を散らした川面を思い出させるような水色の瞳が、ゼルの青い両眼を見据えた。
「ありがとうございます、拾って頂いて。お名前はなんとおっしゃるのですか?」
「ジュオール・ゼレセアンです。でも長いから、ゼルって呼んでくれれば」
 言いながら、ゼルは少年にペンダントを手渡した。彼はそっと手に収めて、
「ではそう呼ばせてもらいますね。ぼくはエリオ・ウィッセルと言います。そちらの方はご友人ですか?」
「ぼく? ああ、ゼルが認めてくれるなら友人かな」
「何言ってるんだよ、当然だろ」
 ふざけた口調にゼルが突っ込むと、はにかんだ二人につられるように、エリオも笑った。暖かい春風が人の姿をとったら、こんな笑顔を見せるのかもしれない。
「ぼくはデュレイク・フロヴァンス。デュレイって呼んでくれ。それと、そんなかしこまったしゃべり方なんかしなくてもいいんだぜ。えーっと……同い年だろ?」
 言ってから不安になったのか、デュレイの語調はだんだんしぼんでいってしまった。それを支えるように、エリオは間を置かずに、高めだが落ち着いた声で答えを返した。
「ええ、見ての通り、義務年齢の中では最年少です。すいませんね、ちょっと緊張してしまったみたいで。デュレイが年上に見えたもので」
「第一印象はそうかもしれないけど、意外とおもしろいとこもあるんだぞ。ここに来る途中貴族の方に会ったんだけど、その時なんか……」
「お、おいっ、ゼル!」
 顔を真っ赤にしながら、必死になってゼルを止めようとした。わかりやすい反応をするところが、やっぱり子どもみたいだな。ゼルはそんなデュレイの態度を、不謹慎だと思いつつも面白がりながら、話の続きを語ろうとした時だった。
 部屋の扉が開け放たれ、男が姿を現した。ゼル達を部屋まで案内した男ではなかったが、同程度に身分の高い者であることは、色は異なるものの、宝石を飾った金具が物語っていた。
 途端に、部屋を満たしていた話し声は、まるで最初からなかったかのように消え去った。男が、手にしていた紙に目を落とすと、ゼルは場の空気が一層沈み込んだように感じた。しかしそれは恐怖などではなく、一種の緊張であった。
「次に呼ばれる者は廊下へ。エリオ・ウィッセル……」
 続けて男が読み上げた名前を、ゼルは記憶に留めることはできなかった。名を呼ばれた当の本人――目の前の少年の目つきが、にわかに変わったからである。優しげな色は残したままだったが、淡々と文面を読み上げる男を見る目は、まるで別人だった。ゼルは、獰猛な野生の動物というのを見たことはなかった。だが、聞いた話から想像するだけなら、獲物を見つけ動物はこんな目をするかもしれない。柔和な印象を受けたこのエリオという男も、やはり兵としての意気込みを持ってここに来たのだろう。
「ぼくの順番が来たみたいだ。それじゃゼル、デュレイ、機会があればまた会いましょう。ゼル、見つけてくれて本当にありがとう」
 そう告げたエリオの目からは、あの鋭さにも似た眼光はなくなっていた。踵を返し部屋を出て行くまで、ゼルは彼の背中を見送った。
作品名:狼の騎士 作家名:透水