狼の騎士
第二章「王都の勇兵達」【1】
太陽がまだ頭上にたどり着かないこの時間は、日が当たっているとはいえ、吹く風には冷たさを感じた。細い路地を小さな風が抜けていく。それになびいた外套を、ゼルはぐっとつかんで体に引き寄せた。そして、まだ人通りの少ない道の先を見据えた。
その通りのつき当たりに、王宮の建つ地への黒塗りの柵門を認めた時、ゼルは心音が高鳴るのを感じた。その両脇には、デュレイの言っていた通り門番が二人控えている。
「いよいよだね、ゼル。手紙はちゃんと準備してる?」
「もちろん。ほら」
ゼルは、右手にしっかりと握り締めた手紙をデュレイに見せた。
「あまりくしゃくしゃにしないほうがいいぞ。王宮に入るのにあそこで一回、入ってからも一回。それに所属を決めるための試合の時にも見せなきゃならないんだ」
「ほんと詳しいんだな、デュレイは」
「いや、おれの友達がね、王宮で務めてるんだ。だから彼が教えてくれるんだよ」
「へえ、きみもすごい知り合いがいるんじゃないか!」
「きみのとこのおじさんにはかなわないよ」
照れたように笑い、デュレイは歩きながら手紙を取り出した。王宮に近づくにつれ、門扉の向こうの様子が露わになり、緑が覆う広い庭を隔て、閉ざされた宮殿の扉が垣間見える。そちらに視線を集中させていたゼルは、突然兵士が視界をふさいだことに驚き、見えない壁にぶつかったかのように、がくんと足を止めた。
「手紙をお見せ願えますか」
感情を伺えない事務的な声は、門番の一人が発したものだった。王と、王に仕える貴族の居城の入り口を守っているためか、武装したその兵の言葉は、ゼル達が新兵であることを予測した上でのものだった。
二人が手紙を見せると、その男はうなずいて、もう一人に合図をした。重苦しい音が、門に向かい合った兵の手元から鳴っている。それが静まると、通りと王宮の境界である巨大な門が、ゆっくりと押し開けられた。
「どうぞ。中に入りますと案内の者がおりますので、その者の指示に従ってください」
たたまれた紙を再び持ち、二人はゆっくりと歩を進めた。門が閉ざされた音は、頭に響くほど大きく鋭かったが、遠目でも美しかった宮殿と、周りの庭のきらびやかさを目の前にしていたゼルの耳には、ほとんど届いていなかった。
芝生を縫うように整然と走る舗道を踏みしめ、ゼルの目は徐々に迫る白亜の宮と、木々の生い茂る広場を何度も行き来していた。あまりそんなことをしていては、田舎者丸出しになってしまうと思い、なるべく控えようと意気込んでいたのだが、王宮に入る前からこの調子である。ゼルの小さな目標は、すでに崩れてしまっていた。
「……これ、自分で開けるのかな」
「多分……」
扉を前にして、デュレイが呟いた。描かれたべレンズの紋章――白銀の狼――が、二人を見下ろしている。王宮に入らなければどうしようもないのだが、この重厚で豪奢な扉は、触れることすら憚られるような雰囲気をまとっていた。
拳を握り締めているのは、デュレイも同じだった。ゼルは意を決してデュレイよりも一歩進み、蔓が彫り上げられた取っ手の片方にに手を伸ばした。
大して力を込めていなかったというのに、扉は呆気にとられるほど簡単に開いた。王の住居の玄関が、こんなにも軽くていいのだろうか。ゼルは一瞬不安を覚えたが、それも扉に張り付くように立っていた男の存在で、すぐ消え失せることとなった。なんのことはない、ゼルが引くと同時に、宮殿の中にいた人物も、同じ側の扉を開けていたのである。
「ようこそ、我がべレンズの新兵となるお方ですな。さ、まずは中へどうぞ」
ゼルと目が合うなり口を開いたのは、門番とは打って変わって、爽やかな声の男だった。二人が中に入ると、男はゆっくりと扉を閉めた。身に纏った外套は黒と見紛う赤色をしており、その胸元には留め金らしきものも見える。銀の金具に、外套の色とは対照的に透き通った薄い赤色の宝石が、小ぶりながらも輝いていた。
「ご案内が遅れて申し訳ない。早速ですが、お手紙を拝見したいのですが」
道中出会ったリエッタという男のように、しかし彼よりも幾分若く見える目の前の男は丁寧な物腰だった。口元に浮かぶ人の良さそうな笑みを眺めながら、デュレイとちょっと似てるな、とゼルは思った。
二人はほぼ同時に、男に手紙を差し出した。男はまずデュレイの手から受け取り、もう片方の手に移してから、ゼルの手紙を引き取った。そして二枚の紙を重ね、その文面を追う目は、やはり一番下で動きを止めていた。
「ありがとうございます。早速待合室の方へご案内しますので、ついて来てください」
返された手紙をしまいながら、二人は左手へ歩き出した男の後に続いた。王宮に務めているのであろう人間と接するのに精一杯で、ゼルはやっと回りを見回すことができた。
遠ざかりつつある入り口の広間には、訪問者を迎えるように壁を埋め尽くすほど大きな絵画が飾られていた。じっくり見たわけではないので詳細は覚えていなかったが、おそらくアミスの神々を表したものだろう。あれだけの大きさなら、神話に登場する神全てが描き起こされているに違いない。
広間と同じく静かな廊下は、ゼルが思っていたよりも狭かった。太陽が窓の形をした光を、敷物に覆われた床と、王宮と同じ白の壁に落としていた。
光をふんだんに取り入れた通路は、その倍以上の幅はある廊下の横切りによって、終わりを告げた。二人を先導する男が、そこを右に曲がる。ここでは、眩しいばかりの石壁は姿を隠し、代わりに落ち着いた乳白色の上に、赤土色を主とした模様を緻密に織り込んだ壁紙が飾っていた。少し進んだ右手側には窓が並んでいたが、反対側は扉がずらりと並ぶばかりであった。そのせいなのか、あの通路で目が慣れてしまったのか、ゼルはこの空間を少し暗く感じた。
その後も、案内の男は何度か道を折れたのだが、壁の灯台や、明り取りの天窓などを見ては、その度に感嘆していたので、歩みが緩んだ時、ゼルは自分が王宮のどの辺りにいるのかさっぱりわからなかった。できるだけ早くに、この宮殿の造りを頭に叩き込みたかったというのに。
せめて目印らしいものだけでも見つけようとすると、通路の終端を、壁の代わりかのように、大きい窓がはめ込まれているのが目に入った。暖かな緑色が、春の日差しと共に廊下を照らし出していた。
「ではお二人とも、こちらです。もうしばらくしたら順に呼ばれるので、それまで待っていてください」
男がドアの一つを開けた。中の様子が見えるより先にあふれてきたのは、大量のざわめきだった。
促された二人が入り口に歩を進めると、かすかに話し声が静まり、近くにいた者はゼル達に目を向けたりもした。どこを見ても、派手ではない外套に、腰に剣を吊った若い男ばかりである。
「なるほど、ここが待合室なんだ」