海の桜
「こんばんは」と彼は言った。「今日は前とは雰囲気違うね。かちっとしてる」
電話から二十分後。わたしは待ち合わせのファミリーレストランに入り、窓に面した角の席に彼の姿を見つけた。彼は黒い無地のブイネックシャツに、時期的に少し早いファーのついたミリタリーコートを着ていた。ブイネックから覗く鎖骨は鋭く、首にはシンプルなペンダントトップのネックレスをつけていた。わたしは彼の向かいに座った。テーブルには大学ノートとペン、それから冷めたコーヒーしかなかった。
「まだ何も食べてないんですか?」とわたしは訊いた。
「そう、この一杯で粘ってたんだよ」と彼は言った。「それで、その格好は何なの?もしかして社会人?」
「違うわ」とわたしは言った。「就職活動だったんです。わたし、今大学四年生だから」
「じゃあ三つ年上か。ふうん、前会った時は全然そんな風には見えなかったけど、そういう格好すると年相応に見えるね」
そこでウェイトレスが水を持ってきた。わたしは注文を待ってもらうように言った。ウェイトレスは笑顔を絶やさぬまま、すっかり過去の遺物になっているコーヒーを素早く一瞥して去って行った。彼はメニューを取り、わたしに向かって開いた。
「さ、何か注文してよ。電話でも言ったようにおごるからさ」
「あなたは食べないんですか?」とわたしは訊いた。
「食欲ないんだ」と言って彼はコーヒーを啜った。全くおいしそうではなかった。「それとその丁寧語、やめようよ。俺はタメで話してるんだし、何より君の方が年上なんだから」
「そんなこと言っても急には」
わたしは微妙な笑みを浮かべ、メニューに目を落とした。沢山歩き回って正直とてもお腹が空いていた。わたしは散々迷った挙句、結局もっとも無難なオムライスを頼んだ。
「いいね」と彼は言った。「俺もオムライス好きだよ」
「そうなんですか?」
「だから丁寧語やめろって。そもそも俺ファミレスが好きなんだよ。雰囲気もそうだし、あともメニューも」
「ファミレスが好きなんて珍しい、…わね」
ふふん、と笑って彼はまたコーヒーを口に運んだ。
「何だろうな、こう、お子様な感じが好きなのかね。自分でもよくわかんねえけど、でもこの明るくて広い感じとか、ちびっこからおじいちゃんおばあちゃんまで居る感じとかが、何か好きだね。誰もいなくても別に良いけど」
「何それ」
そう言ってわたしたちは笑った。彼は相手の心にすっと入りこめる人間だった。
「それで、就職活動か、うまくいったの?」と彼は訊いた。
「わからない」とわたしは口を曲げて言った。「手応えも何もなくて、何とも言えない状態ね」
「だめじゃん」と言って彼はまた笑った。そんな言葉もどこか子供っぽく、嫌味がなかった。わたしもつられて笑った。
そうしている間にオムライスが運ばれてきた。ファミリーレストランは頼んでから運ばれてくるまでが驚くほど早い。ふわっとした卵と同じくらいにやわらかな湯気で顔が包まれる。デミグラスソースの匂いが鼻から直接お腹まで届くようだった。わたしは反射的にスプーンを掴んだが、そこで動きを止めて彼を見た。
「本当に食べないの?」とわたしは訊いた。
「うーん」彼は湯気越しにオムライスをじっと見つめた。それから観念したように片目をつむって言った。「じゃあ一口だけくれる?ああ、とりあえず君が食べてからでいいから」
わたしは彼の方を窺いながらオムライスを口に運んだ。中のチキンライスが舌の上で踊った。わたしは口を押さえて熱さをこらえた。少し涙目になったけれど、とてもおいしかった。
彼はそんなわたしを興味深そうに眺めていた。オムライスではなく、わたしを眺めていた。そんな彼の視線に消えかけていた緊張がまた蘇って来た。
「見てて楽しいですか?」とわたしは言った。
「あ、また丁寧語に戻った」彼はすかさず指摘してきた。「そんな緊張しないでよ。人が食べてるところを見るのが好きなだけだから」
「でもじっと見られると食べにくいでしょ」
「そんなもんかなあ」
わたしはまたオムライスをすくって少し迷った後、彼の方に差し出した。彼は「おっ」と言って特に何も気にせずスプーンに食いついた。わたしはしばらくからっぽになったスプーンの先を見つめていた。
「うまいね」と彼は言った。
「そうね」と言ってわたしはスプーンを引っ込めた。
「それで、あの、どうしてわたしを呼び出したの?」
オムライスを食べ終わり、ナプキンで口を拭った後、わたしはそう訊ねた。店内はわたしが入って来たときよりも客が減って、割と静かだった。しかし、その静寂の分スピーカーから流れる有線放送が無邪気に響いていた。
「俺、逃げてきたんだよね」
「えっ?」
わたしは思わず訊き返した。彼の言っている意味がよくわからなかった。
「今日レコーディングの日だったんだよ。次に出すアルバム用の曲録っててさ。一応作詞作曲は俺がしてんの。で、曲は出来てるんだけど詞が書けてねえのがいくつかあってさ。スタジオで缶詰になりながらずっと考えてたんだけど全然書けねえから、発狂同然で逃げてきたの」
わたしは彼の言葉を一つ一つ確認しながら呑み込んだ。しかし、それでもよくわからないところがあった。
「すごく大変そうなのはわかったんだけど、それでどうしてわたしを呼んだの?」
「走ってる時にふと思い出して会いたくなったから」
彼は淡白なほどまっすぐにそう言った。あまりに素直なその響きにわたしは面食らってしまった。彼は自分が言ったことに対してなにも思っていないようだった。実に当然な事をしたというふうな顔だった。わたしは目線を顔から外し、その手元を見た。
「そのノートに書いてあるの?」とわたしは訊いた。
「そうだよ」と彼は言った。「でも見せないよ。未完成な状態では絶対誰にも見せねえんだ」
「どうして?」とわたしは言った。
「そりゃあ、やっぱ不安だからだよ」そこで彼は初めてまごついた。「曲も歌詞も自分の中から出てくるもんだからさ、自分で納得できないうちには他人には見せられない」
彼はノートに目を落としていた。店内には国内で有名なJ―POPシンガーの新曲がかかっていた。
「何だかんだ言ってさ、唄ってる時とかもこわいんだよ。すげえこわくて、わけもなく手が震えてるときもあるんだ。もちろん楽しいよ。音楽はどうしようもないくらい楽しい。けど曲作ってる時とかにそれと同じぐらいの質量の苦しさとか、哀しさみたいなもんが湧いてくる時がある。けどこれもどうしようもねえんだよ。俺、唄わなきゃなんねえからさ。どんだけ苦しくても、やっぱ唄いたいし」
その言葉を聞いたときだったと思う。この人の唄なら信用できると思ったのは。初めて彼の唄を聴いたときにあれだけ聴き入ってしまった理由もわかる気がした。けれど、それが彼にとって幸せなことなのことなのかどうかわからなかった。わたしの中で捉えどころのない衝動が膨らんでいくの感じた。初めて経験するようなどうしようもなく強い衝動だった。ふと見ると、わたしの手も震えていた。もう一度彼の方を見た。彼は口元に手を当てて、窓の外に目を遣っていた。目元に掛かる髪のせいで表情は読めなかった。