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おおつしゅう
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novelistID. 27296
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海の桜

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彼は、元ミュージシャンだった。

 わたしが彼と出会ったのは、彼が上京して間もなく、インディーズで活動していた頃だった。
 その日のわたしは、彼のバンドが目当てではなかった。友達の彼氏がギターを務める対バン相手。気の進まないわたしを友達は強引にその小さなライブハウスに押し込んだ。わたしはロックバンドのライブなんてそれまで見た事がなかった。一人盛り上がっている彼女を尻目に、わたしはからだを小さくして最前列でそのバンドの登場を待っていた。
 いくつかのバンドを見終えて、あと一つ見れば彼女の彼氏のバンドというところまで来た。わたしはおおよそ健康からは程遠い汗をびっしょりとかきながら、何とか気を保っていた。頭は熱気でぼおっとして、目もかすむようだった。鼓膜の内側に空気が溜まっているような感じがして、何度も唾を飲み込んだ。次に誘われた時はどんなことをしても断ろうと思っていた時、彼がわたしの前に現れた。
 一見、彼は何の変哲もない普通の男の子に見えた。長めに伸ばした髪にひょろっとしたからだ。ギターの音をチェックしている細く繊細な指がひどく頼りない。しかし、ギターから目を離して顔を上げた彼の一声が、周りの雰囲気を一気に変えた。
 彼は一曲目のワンコーラスを完全にアカペラで唄った。曲なんかろくに聴かずただ盛り上がりたいだけの客は急速に熱を冷まし、次の瞬間にはヤジを飛ばそうとからだを乗り出した。しかし、彼の唄はそれを許さなかった。彼の唄はただただ、客を釘づけにした。誰一人身動きすることすら出来ず、聴き入ることしかできなかった。それはわたしも同じだった。
「俺は真剣に唄うから、お前らも真剣に聴けよ。お前ら騒がせるために唄ってんじゃないんだよ、こっちは。頼むからちゃんと聴いてくれ」
 一曲目が終わった後、マイクを取って彼はそう言った。ぼそぼそとした声だったが、ナイフのような鋭さがあった。
 よく聴いてみると、彼は特別唄がうまいというわけではなかった。演奏自体のレベルもそれまでのバンドたちと大して変わらないように思えた。けれど、彼は圧倒的に彼でしかなかった。それが彼の唯一にして最大の武器だった。彼の唄う歌詞は一体何を言っているのか、わたしにはよくわからなかった。けれど、何故か自分のことを唄われているような気がして仕方がなかった。彼らのパフォーマンスも興に乗って来ると、ライブハウスは最高のボルテージに達していた。彼はそんな会場の雰囲気が気に入らないのか、何度か演奏を途中で止めた。そして「聴けよ、お前ら」とだけ言ってまた何事もなかったかのように唄いはじめた。それでも客は好き放題に盛り上がっていた。そんな中でわたしだけ、ただ立ちつくして彼の唄に耳を傾けていた。
 結局、友達の彼氏のバンドはぱっとしなかった。連れてきた彼女までそう言いだす始末だった。そのあと、彼女とそのバンドの彼は長くは続かなかった。
 ライブが終わった後、わたしは彼女に連れられて楽屋に行った。楽屋は汗臭く、男の人ばかりだったので少しこわかった。わたしは彼女の陰に隠れるようにして黙って立っていた。彼女は彼氏のバンドの演奏を絶賛していた。わたしは何となく同情しながらその会話を聞いていた。その時、不意に声を掛けられた。
「最前列で聴いてた子だよね?」
 わたしはぎょっとしてからだを硬くした。見ると、わたしのすぐ隣に彼が立っていた。彼は肩に黄色いタオルを掛け、水の入ったペットボトルを握りしめていた。わたしは彼から目を逸らして頷いた。
「そうです」とわたしは言った。
「やっぱり」と言って彼は一口水を飲んだ。「唄ってる時目の前にいたから覚えてたんだ。なんかめちゃくちゃ真剣に聴いてくれたみたいで、ありがとう」
 わたしはとても恥ずかしくなった。きっとものすごく間抜けな顔をしていたに違いない。その時わたしは真剣というよりも、一種の放心状態に陥っていたのだ。
「こちらこそ、ありがとうございます。すごくよかったです」
 それでもわたしは気持ちを振り絞ってそう言った。彼と目が合った。充血して赤くなっていたけれど、わたしはそれを綺麗だと思った。
「メアド訊いていい?」と彼は言った。
「えっ?」
 わたしは彼が何を言っているのかわからなかった。それまで初対面の男の人にいきなり連絡先を訊かれたことなどなかった。
「出来れば電話番号も教えてくれると嬉しいんだけど」
 そんなわたしをよそに、彼はそう言った。わたしは焦ってしまい、ポケットから携帯を取り出そうとして落としてしまった。手が汗でひどく濡れていた。彼がわたしより先にしゃがんで落ちた携帯を拾ってくれた。
「赤外線出来る?」と彼は言った。
「大丈夫です」とわたしは言い、赤外線を使って彼と連絡先を交換した。
「ありがとう」彼は携帯を持ち上げるように見せてそう言った。「俺、今後会いたいと思うかもしれないって感じた人には迷わず連絡先訊くようにしてんの。じゃないと今度いつ会えるかわかんねえからさ」
「そうなんですか」
 さらりとそう言ったが、心臓が倍の大きさになったような気分だった。彼はもう一度「ありがとう」と言ってメンバーのいる所に帰って行った。そのあと友達に誘われて打ち上げにも参加した。わたしは始終彼のことが気になって、テーブルに何が並んでいて自分が何をどのくらい食べたのか全く把握できてなかった。けれどその席で彼が声を掛けてくることはなく、わたしたちはそのまま終電前に解散した。

 彼から連絡があったのは、それから二カ月後だった。最初のうちは彼を思い出してよく携帯を気にしていたが、その頃には期待も消えて自分の生活が頭を完全に占拠していた。当時大学四年生だったわたしは就職活動に文字通り奔走していた。その日もまるで手応えのない面接を終え、資料の詰まった重い鞄と気持ちを引きずってワンルームのアパートに帰った後だった。スーツで固められたからだをベッドに投げ出して天上を仰いでいる時、鞄の中で低い振動音が鳴った。わたしはあまりにも疲れていたので、一回目を無視した。しかし、続けざまにもう一度鳴ったところでわたしはからだを起した。その日に採用の連絡が来るはずのないことを頭で何度か確認しながらも、不安な手で鞄を開いて携帯を出した。
 ディスプレイに表示された名前を見て、わたしはそれが誰かすぐには思い出せなかった。しかし、自分の電話帳に記録されている以上は知っている人に違いないと思い、緊張しながら通話ボタンを押した。
「もしもし」とわたしは言った。
「もしもし」と相手も答えた。「俺だけど、覚えてるかな?」
 彼からバンド名を聞いたところで、わたしはやっと思い出すことができた。「あの時の、ボーカルの方ですか」
「そうです。あの時のボーカルです」と彼は笑いながら言った。「あのさ、急なんだけど今から会える?」
「今から?」
 わたしは腕時計に目を遣った。ちょうど夕食時だった。
「そう、今から出てきてほしいんだけど」
 そう言ってあるファミリーレストランの名前を出した。家からそれほど遠くない場所だった。
「おごるからさ。あんまり金ないから食べ放題ってわけにはいかないけど」
 電話の向こうで彼が笑った。その時わたしはすでに上着に袖を通していた。
作品名:海の桜 作家名:おおつしゅう